月を旅路の友として

大学生です。旅行記と、140字じゃ収まらないネタと、色々。

見知らぬ人へ

 「安心な僕らは旅に出ようぜ」とイヤホンから音楽が流れて来たとき、下り普通列車が炎天下の熱海駅に三分遅れてやってきた。乗り込んですぐに列車は出発して、それから落ち着かないうちにトンネルに入る。隣駅までの間の大部分を占める、この七キロメートル以上もある丹那トンネルは、東海道の悲願だった。というのも、一九三四年にこの隧道が完成するまで東海道本線は途中の国府津で北に大きく迂回して急勾配を避けねばならなかったが、迂回してなお急峻な鉄路のために補機を連結する手間がかかった。国家の大動脈にこのような支障があってはならない。そういうわけで文字通り山体に風穴を開ける長大トンネルは作られた。蒸気機関車の時代にあってはこのようなトンネルの中では窓を閉めなくてはならなかった。煤が入り込むのを防ぐためである。

 

 開通してから八十年ばかりが過ぎた。何人がこの道を通っただろう。どれほど重要な使命を抱えて、急用に駈られて、この真っ暗な車窓に苛立って通り過ぎたのだろう。あるいは今の僕のように、どれほどの人間が不必要にこの道を通り過ぎたのだろう?車内を見渡す。一人の老人が車両の中程にいた。老人は立ち上がり、気の狂ったように、窓を手当たり次第開け始めた。周囲の窓を開け尽くして元の位置に老人が戻った頃、視界は開けて車掌が函南駅への接近を告げた。それで僕は、そういえばそういう時代なんだよな、と今更思った。

 

 それから東海道を延々下り続けるにあたって、混んでいても間隔を空けるために態々立ってドアにもたれかかっている人は、列車が変わっても一定数いた。だから僕の隣は常に空席だった。それで思い出したのは去年の夏、洞爺湖から帰る二両のディーゼルカーで寝ぼけて終点の東室蘭に着いた時に膝を叩いて起こしてくれた制服姿の人のことだった。顔も思い出せない。というか最早性別も分からない。でも僕の旅は確かに記憶の中に残っているそういう人たちに、常に支えられ続け、彩られ続けてきた。

 

 旅は知らないそして出会うはずのない誰かと出会う行為でもあると思っている。それは道を進んでいけば必ずいくつもの交差点に行き当たりその度に今までは見えていなかった道と交わっていくというようなことだと考えれば分かりやすいだろうか。進めば進むほど色々な道とぶつかっていく。例えば、フェリーで洋上の朝焼けを一緒に見た、遠距離の彼女と会った帰りの一個下の大学生とか。例えば、北海道の冬の雪道を一人で歩いていたら車に乗せてくれた人たちとか。例えば、迷い込んだ山の中で食べたことないぐらい甘い蜜柑をくれた農家の人とか。例えば……。

 

 別にそういうことばかりが旅の目的だと言っている訳ではない。ただ旅に必然に付随するものとしてそういう出会いがあって、大体の場合はその場かぎりであとのことは知らない。今も元気だろうか、と時々思う名前も知らない人がいる。僕はこのコロナとかいうのが出てきてから夏休みに二回ぐらい旅行らしき旅行をした。でも、そういう出会いは一回もなかった。一回もである。誰もが知らない人に疑念を覚え臆病になっている今当然のことである。勿論今そんなことをしていこうとは、全く思わない。

 

 ただ今はゆっくり歩いていくぐらいのスピードで道を進んでいくのも悪くない気がしてきた。今までは見落としてきたものを見ることもできるし、一旦速度を緩めていこう、ということだ。ちょっとマンホールとかじっくり見てみるのも面白いかもしれない。しかしだからといって今までにあったことを忘れ捨てていくというつもりはない。オンラインとかで誤魔化して生き続けていくことには我慢ならないというのはいつだったか書いた。もういつのことか忘れるぐらいこの期間は続いている訳だ。でもいつかこの制限区間が終わったら、この道を途轍もないスピードで駆け抜けて、沢山の出会うはずもなかった名前も知らない人と会って別れていきたい。だから待ってろ、まだ知らない人。

 

 

終わり

大学に行ったらディストピアの公園になってた

 一体いつになったら梅雨が明けるのでしょう。奄美では過去最も遅い梅雨明けを記録したそうで、この調子では関東もそうなるのだろう、と過去の記録の日付を見てみると、平年ですら七月二十一日だし、昨年は二十四日、統計上最も遅かったのは一九八二年の八月四日。もっと七月上旬にいつも明けているようなイメージがあったのだけど、もう去年までがどうだったかなんか何も思い出せない。

 

 そして早く梅雨明けしてほしいという思いは、気候上だけでなくタイムラインの湿度が明らかに高いのもある。もうジメッジメしてて、別にどのツイートがとかどの話題がとかじゃなくて全体がイライラしてじとっとした感じのツイートが多い。個ではなく群としての不快指数が高いんです。農家の人がビニールハウスにつけるあれタイムラインにつけたらもう針振り切れてると思う。

 

 そんなこんなで異常湿度のSセメスターが今非常に不本意な形で終わろうとしている。で、夏休みがそろそろ来るので学割を発券しに大学に行かなければならなくなった。あれはオンラインとかにならないし、学生証見せるだけじゃダメなのでどうしても大学に行かなくては手に入れる事ができない。そんなこんなで駒場に行った。クソ狭いホームに降りるのも久しぶりだ。

 

  最後に大学に行ったのはいつだろう?調べたら三月六日でした。流れる月日の真ん中のちょい手前。もう五ヶ月近くこの大学には足を踏み入れていなかったことになる。長い。長期休み二ヶ月大学行かなかっただけで「テーマパークに来たみたいだぜ テンションあがるなぁ〜〜」とか言ってたのに、五ヶ月。長えんだよ。マジで。LOVE PHANTOMのイントロか?

 

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 はっきり言って異常でした。まず現状入るのに事前に申し込みが必要で、門にいる守衛さんに申し込んだメールを見せて立ち入る事が出来る。もちろん朝検温しなくちゃいけない。ちなみに正門以外は封鎖されているらしい。学生もいないわけじゃないけど、ほぼゼロに近い。すれ違ったのは四、五人がいいところで、あとは教員っぽい人も同じぐらい。授業終わった夜でも相当人の行き来があった印象があるので、ここまで人がいない駒場は想像出来なかった。

 

 新歓用らしきタテカンが全部倒されててタンクだけがずらーっと延々並んでいて枯れ葉がその下に敷き詰められてる状態。SNSに上がってる本郷みたいに草が伸び散らかしているみたいなことはないけど、大概のメインストリートは悲惨な感じがします。自販機には3月発売とか締め切りは6月までとか書いてあってああここは時間が止まってたんだなあ、と。

 

 ちなみにキャンパスで見かけた中で一番多かったのは圧倒的に幼稚園児でした。フサカ池の前で虫取り網持ってました。関係者以外入構禁止って何ですか?いや別に地域の場として大学が解放される云々は理解出来るんですけど、何で俺らはわざわざそサイトに登録して行く当日に連絡してメール送ってもらうとかいう手間かけてんのに虫とってんだよ、とは言わざるを得ないでしょう。

 

 え、あれもしかして大学関係者だったんすかね?明らかに身長1mとかでスモック着てたんですけど。でも見間違いなんだろうな、今の大学にいたからな。じゃあ一体何を持って見分けてるんですか?俺には見分けのつかねえもんばっかだよ。教えてくれよ。カンニング竹山サンボマスターのボーカルのどこがどう違うのか分かりやすく説明してくれよ。亀井静香森永卓郎を両方紙コップに入れてぐるぐるシャッフルさせてから開けてもどっちがどっちか絶対分かんだろ?あ?

 

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 ここに来て思ったことは、ああやっぱり僕たちの大学生活は無くなったり消えてったんじゃなくて奪われていったんだなあということです。何もなす術なく目の前で何もかも持ってかれたんだな、と。

 

 最近というかここ十年近く、そういうのって流行りじゃないですか。主人公が運命に導かれるんじゃなくて、悲劇が先にあって犠牲を踏み越えていくタイプの漫画。目の前で母親が巨人に喰われたり妹一人以外家族全員鬼にぶち殺されたりゾンビ化したヤクザにペットと一緒に体バラバラにされたり。でもきっと大丈夫。調査●団か鬼●隊か公安対魔特異●課か何だか知らないけど、そういうなんかすんげえ組織が出てきてきっとみんなの力になってくれるんだよ。逆にコロナを取り入れて特異体質になった主人公が「大学」に所属してコロナと戦うとか。ダメ?ダメかあ。

 

 逆に言えば、人っ子一人いない大学を見て大学生活ってなんなんだろうと思わされたのはタメになりました。お世辞にも僕はここに友達が多いとは言えませんが、人との繋がりのない大学ってなんなんでしょう?僕たちがオンライン試験の受け方を上達させてる間にここでは空虚な時間が流れ続けていて、それは一体この先何になるんでしょう?分かりません。別に僕は対面授業再開を希望しているわけではないタイプの人間です。でも考えさせてくれるいい機会ですし、この異常な空間はそういう意味ではいい場でした。なのでとりあえずGoogleMap上の評価を星1にしときました。

 

 直感なんですけど、僕はもうこのキャンパスにお世話になる事があまりない気がします。あくまで直感です。多分大学生のうちに来る回数は両手で数えられるくらいかもしれない。根拠はありません。でもあと半年しかいないのに、あんな終わりかけのざま見せられたらああなんかもう無理だなって思います。空いてない食堂とか普通に悲しくなります。ただもう僕が思うことは今年入学してきた一つ下の後輩には来年まともな大学生活をあのキャンパスで送って欲しいです。入っていきなりこれなんて僕なら耐えられません。それこそ悲劇ですよ。少年漫画のパターンを現実に持ち込まないでください。でもまあ少年漫画ならいっか。絶対先輩だけ死んで主人公は生き残るんで、後輩はきっとキャンパスライフを送れます。

 

おわり

 

 

2020年7月24日の日記

 梅雨が明けました。三ツ矢サイダーがおいしい季節です。もうここ最近近所の林から蝉の大合唱が家にいても毎日うるさくて、ようやく夏が来たのだなあと実感させられます。

 今日はオリンピックの開会式です。僕は運動音痴なのでスポーツが嫌い、とか常々ツイッターで言っているわけですが、結局毎日見ちゃうんだろうなあ。「国民の皆さんに勇気を!」とかいう言葉、本当に反吐が出るくらい嫌いなんです。結局暑さ対策なんか何も出来てないし、友達もボランティアに動員されて問題は山積み。僕もバイトが夜2時までに延びました。おかげさまで給料は過去最高の11万円越え。でもすぐ使い切っちゃうんだろうなあ。なんかこういうお祭り騒ぎ、いざ来てみれば嫌いじゃないです。後何時間かで開会式な訳でさっきからリビングのテレビはずっとカウントダウンしてるんですが、普通に楽しみです。あーあ、ブルーインパルスが飛ぶなら撮りに行けばよかった。写真で見る1964年に負けず劣らず綺麗な五輪でしたね。暑かったは暑かったけど、快晴だったのもよかった。

 四連休は結局テスト勉強に忙殺されそうです。昨日は友達の留学の見送りに羽田まで行ってきました。アメリカで一年。羨ましい。突然日本でライブ現地行けないのが嫌だとか言い出してそこかよって思いましたけどね。まあ最後に飲み会も出来たことだし良かったです。しかしいよいよ夏到来、って感じが空港でもしました。あちこちスーツケース持った人、人、人。海外でバカンスなんていったい僕にはいつになったら出来るんでしょう?それ以前に国内か。お盆の新幹線も全部売り切れだそうです。相変わらず。お盆は家にいるかなあ。帰省するのもありか。まあそのうち考えます。

 そんなこんなで昨日何もしなかったも同然なので、いよいよあと三日は勉強漬けです。結局テスト期間に焦るなんて去年から学習できてないなあ。二年生になってもスケジュール帳はなんだかんだ七月末までテストで埋まってて、毎日大学にテストだけ受けに行くのも面倒だなあ、と思いつつ。だって一限の時間の電車混むんですもん、乗りたくないですよあんなん。ああでも、しばらく夏休みで会わない友達とかには会っておきたいなあ。それにこのテストが終わったらようやく旅行に行けます。とはいえ五月も六月も行ってきたから平常運転と言われればそれまでなのですが、やっぱり夏休みの旅行は格別です。どこに行こう?まだ考えてません。でもどこだっていいのかもしれません。普段の生活の重圧から解放されて、何も不安に思うことなく旅行できる、そんな瞬間が好きなので。あとは花火大会とかも行きたいかな。サークルの諸々もやらなきゃ。

 そんなこんなで2020年はなんだかんだ言いながらいい年になりそうな予感がします。まあ半分終わった後でそんなこというのはちょっと反則な気もしますが。じゃあ皆さん、熱中症にだけは気をつけて。夏を楽しみましょう。

何もしてないのに人生が壊れた

  • 廃品回収車に乗りたい

 廃品回収車って最近見かけなくないですか?いやあれは見かけるというよりかは耳で存在を感知するものだと思うんですけど、よく考えてみたらもうここ数年一回も近所に来た覚えがありません。もはや僕の家の周りからは全て廃品という廃品を根こそぎ狩り尽くして廃品不毛地帯にしたから用済みになったのか、エコでリサイクルでサスティナブルな社会が到来したのであれ自体が用済みになったのか、まあ知るところではありませんが、今猛烈にあれに乗りたいんですよ。奥行きの方がでけえブラウン管テレビとか、お前カビのせいで逆空気清浄機になってんだろみたいなきったねえ灰色のエアコンとかと一緒くたに荷台に積まれ、軽トラに揺られてどこまでも行きたいと思うんです。「壊れていても構わない」んでしょ?乗るしかねえだろ。あれはビッグウェーブなんですよ。人生三大乗りたいものランキング:「前の車を追いかけるタクシー」「バカデカいショベルカー」「廃品回収車」。

 乗りたいと思っても廃品回収車が来ないなら乗れないというのは自然な道理なんですけど、マジで一切来ないんですよね。昔あれだけ来てたのに。そう思うと自由に廃品回収車に乗れた時代がすげえ羨ましい。壊れていても構わなかった昔が欲しくて欲しくて仕方ない。でももう無理なんです。壊れちゃったら、ちゃんとよくわかんないところに電話して、コンビニかなんかでお金払って、日曜日に来てもらって、連れ去ってもらうしかないんです。こうやって僕の欲しいものはいつもいつもいつもいつも時代に奪われていきました。あと十年早く生まれていたら?無い物ねだりは悲しいだけだって一番わかってるんですよ。でもそうでしょう、もし仮に十年前に同じ年齢だとしたら、もし仮に五年前を同じ立場で味わえたとしたら、今の自分と比較して楽しかった・気軽だった・自由だった、そんなことは目に見えてるわけです。クソみてえに暑いのにマスクつける必要もねえし、好き勝手誰の目も気にせず世界中ふらふら回っていいし、ツイッターにはまだクソリプも来ないし、ツイッターにはまだクソ引用RTも来ないし、ツイッターにはまだクソ陰湿鍵リツイートも来ないし。

  • さようなら懐古厨

 僕は自他共に認める懐古厨です。まあざっくりここまでの千文字ぐらい読んでたらだいたいわかると思いますし、あるいはツイッターのアカウント覗いてたら時々失われた時を求めたり過ぎ去りし時を求めたりしてるのは知っている事かもしれません。でもそれは比較的緩やかに自分のしたいことが奪われていったりした時に感じる事であって、時代の進みに連動した技術革新とかの恩恵を受ける分とのプラスマイナスゼロかなあって思ってたわけです。ところが2020年がやってきたらこのざまです。壊れかけです。たとえ徳永英明でさえ本当の幸せを教えてもらうことができません。逆に聞きたいんですけど、2019年と比較して今年何か一つでもいいことありましたか?僕はありません。一切。ゼロ。なにこれ?喪中?

  • 復讐は何も生まない[要出典]

 もうむちゃくちゃ腹立ってくるわけですよ。俺なんか悪いことしたか?確かに親に見せるプリントをランドセルの中でくしゃくしゃにちぎれさせて無くしたふりしたり部室でカルピスを密造酒に変えたり今もLINEを十日返してなかったりとかしましたよ、ええ。でもそれで大学生活大凡三年間を奪われなくちゃいけないんですか?お母さん創ろうとしたって左足持ってかれるだけですよ。俺の人生三年やるからって等価交換は一体何となら成り立つんですか?もう懐古とかしてる場合じゃないんです、ただ真っ当に何事もなく大学生活を送れる環境があった全ての過去に対する憎悪がこの三ヶ月で作られました。クッキーババアがクッキー作るのと同じくらいの勢いで「憎悪」家で作ってました。持たざる弱者としての現在から過去へのルサンチマンです。もちろんそんな感情に何の意味もありません。早くそんな負の感情捨てた方が真っ当な人生送る上ではましです。そんな復讐は何も生まない以前に復讐にすらなりません。

  • 最高の人生

 という訳で現代から過去へ向けてのこの憎悪をどう形にしていくか、となった時に答えは一つしか浮かびませんでした。クソほど楽しんでやります。比較したらもちろんこんな時代カスのゴミで終わりかけですよ。でもなんか作ってやりたい。なんかしてやりたい。安全圏にいる過去と未来に一泡吹かせたい。そのためならなんだって、もう一から軽トラ買ってきて自分で廃品回収車にして自分で回収されてきます。もちろんルールも世間体もしっかり守った上でめちゃくちゃやります。程よい制限はスパイスです。よく年重ねて制限がなくなったから楽しい、っていう人いるじゃないですか?バカじゃねーのって思います。んなもんルール破ったら誰でも面白くなれんだよ。全裸で新宿アルタ前に直立不動してたら誰だって面白いだろうが。将来「コロナだったから仕方ないよね」とか「かわいそうな世代だったね」とか、多分絶対言われると思うんですけど、それを何の感情もなくしかも自分はのうのうと何の心配も不安もなしに青年期を生きた人間に言われたら多分死ぬほどムカつくと思うんですよね。で、言ってやるか、まあ言わないにしても心の中で思うか、どっちでもいいからこう言ってやりたい。

「おかげさまで最高の人生です」

 

(人生が)おしまい

町田戦記 Ⅴ

 冬の乾いた空気が流れ込むこの場所で私はずっと、ずっと待っていた。深夜にこの場所へ来てから何をするでもなく、ただじっとしていて待っていた。震えは冷え込んだせいでなく興奮と動悸とであって、全くもって眠れなかったしもとより眠るつもりもなかったが、気がつくと机に伏せるようにして私は眠っていたようで、起きた時にはもう世界が変わってしまったような、そんな直感があった。私はすっかり冷え切った金属の部分を摘むように手にした小銃を、太陽の光へ少し当ててから、服の中へ滑り込ませた。それから気が遠くなるほど長い時間が流れたような気がして、円い空の続きの遠いどこかで、車の止まる音がした。それを合図に私達は立つべき場所へ立った。それからしばらくして昇降機の金属板が低い鳴動を三回やってみせた。それは二回目の合図であった。そしてまるで初めてこの場所に足を踏み入れた日を思い出させるような突然に降ってきた来客であったが、あの時と明確に違うのは、私がその時に抱いた恐怖など今には微塵もなく、それは彼らが私が招いた客であるから以外の理由がないからであった。武者震いを堪え生唾を呑みこんだツルカワと声を合わせ、彼らの訪問を出迎えるのが私達であることを明確にした。

 「ようこそここへ」

その三人の男達の中で、最も身長の高い黒い男、トチョウ=シンジュックは真っ先にある場所を見てからぽつりとこう言うのであった。 

「ミサイルがない、だと?どこへ打った。」

彼は、何故知っているのか、それを置いておくとして、五発のミサイルのあったはずの只の空間に近寄ってそう言って、ヒカリエ=シブヤはそうする彼とまるで決別するかのように私達の方へと近づいてきた。だが父はそうはしなかった。父は一人動かないで、ずっと昇降機の側で十五年ぶりに立ち入ったのであろうこの場所を見渡していた。しかしそれには、果たして何であるかは私には分からないが、何らかの明確な意図があってだろうと思って、私はとりあえずトチョウへの返答をすることとした。

「もう打ちました……ついさっき、ここに向けて」

「そうか、最後の一発を打ったか。」

そうやって横並びになった私達三人を順繰りに見た後でにんまりと笑って、黒服を弄って小さな立方体を一つ右の掌の上に取り出した。

「残念だったな、私には予備がある。一発だけと言うのは、勿論嘘さ。もう一発のミサイルがこのスイッチを押すだけでここへやって来る。焦って打たなければよかったものを、君らは早すぎる決断をしてしまったね。」

父の産物によって私達は王手をかけられていた。私達が最後のミサイルを隠したとも、あるいはどこか別の場所へ放って欺いているという可能性など、まるで考えていないようであった。それはもしも彼があの機械を作動させて、そしてもしそれに意味ある結果が伴わなければ、何かまた別の策を講じられるということの証左でもあるのだろうと思った。

「そう、君は賭けに負けた!私が予備を持っていない可能性に賭けて、負けた!さあこの手で、最後の愚かな神奈川県民を我が東京都に入れてやろう」

 彼が四角形に親指の圧を込めると、ややしてから地鳴りがあって、すぐ立っていられないほど激しい揺れがこの場所を襲った。その後で、金属と金属が高速でぶつかり合った、高くそれでいて鈍い音が耳を刺すように響いたのでそこにいた全員が音の方向を見ると、銀色の螺旋が原型を留めないほどに煙を立ち上げながら変化していて、もはや何か別のものへと変化していた。その歪な像を見たその時に私が思いついた言葉は只一言、"創造"であった。

「何だ、一体、どうなっている?」

飲み込めない状況にお互い焦燥を見せることもなかった。だが何が起こったのかを確かめあおうと一歩ずつ暗闇に手を伸ばして正体を探るように、落ち着いた質問をトチョウはしたので、落ち着いてはいられない状況ではあったが私も静かに返事をした。

「一個のミサイルを五十個にバラバラに分割してもらったんだ……知り合いの婆さんにな。その小さなミサイルを機械が一時間に一回、ちょうど二日後まで、必ずこの螺旋をめがけて落とし続ける。」

それはもうミサイルとは呼べないほど小さく、あるいは銃弾のような大きさであったが、決して効力は失われておらず、この地下施設の周囲、旧町田駅だけは常に神奈川であり続けた。

「なるほどな。ミサイルをここへ向けて撃ったとは言ったが、いつ何発撃ったとは言っていない、というわけか。そして私がいつ東京都にさせたとて町田を無理矢理神奈川に書き変える……よく考えられている」

「そうだ。町田はいま世界最後の神奈川だ。そしてここから再び神奈川をはじめ直す。もうお前の好きなようにはさせない」

「言ってくれるな。だが君達は知っているだろう?このミサイルは落ちた場所に帰属する人間だけを神奈川県民にする。私はこれでは神奈川県民にはなってはいない」

「当たり前だ。だが今俺達が都民になることもない。そしてお前はもう、俺達を都民に出来はしない」

「どうだかな」

「何?」

「どうして私がナルセ=ツインズウェストを連れ去ったと思う?優秀な科学者が欲しかったからだ。ではどうして私がサンシャイン=イケブクロを幽閉していたと思う?いいや、本当はもっと幽閉しているんだよ。そうでなければあんなに大きな家に住む必要はない。答えは一つ。労働力が欲しかったからだ。ミサイル量産のな!ここまで用意周到に私を誘き寄せる手段を講じておきながら無策にもミサイルを撃ったと思い込んで、それに乗って私まで無策に東京化を行うなんて、あまりに考えが甘いだろう?私には五十のミサイルなど優に塗り替えるだけの予備がある」

男は自らの勝ちを確信した表情でまたにんまりと笑った。

「どうせ昇降機を動作させられるツルカワ=ジョルナレミィとナルセ=ツインズウェスト博士だけを地上に逃して東京化を解除させようとか、そういう考えだったんだろう?」

私は愕然とした。私の考え得る限り最善の策はもう最初から、全く以て看破されていたのだ。その答えによって、先程から動き出すタイミングを窺っていたツルカワはぴたりと硬直してしまった。甘いんだよ、という怒鳴り声が響いて、それから暫く誰も声を出そうとしなかった。その沈黙を破ったのは、結局トチョウだった。だがその声は先程のそれと打って変わって慈愛に満ちたような声だった。

「君たちはどうしてそこまで東京であることを嫌う?受け入れればいいじゃないか、東京を。」

私達は誰も答えられなかった。

「私と君達の一体何が違う?同じ目的じゃないか。失われた世界を取り戻したいんだろう?」

私が答えた。

「確かにそうだ。俺は取り戻したい。」

なら、という声を振り払うように私は喋り続けた。

「だがかつての世界を取り戻そうと足掻いて辿り着くのは、俺たちが逆戻りし続ける世界だ。人間の進む矢印は後退の方角を向き続けている。そうやって巻き戻した地点から再生すれば、再び崩れ去る……誰も前に進もうとしていないからな」

「君たちはそうじゃないというのか?」

「俺たちは進むべき方向を前にしている。お前とは真逆なんだ。前に進み続ければいつかはかつての人類が歩みきった場所の同じ線上まで辿り着ける……そうすればその時俺達は失われた世界を取り戻していることになるだろう、俺たちが二の轍を踏まなければ、もっと、もっとその先へ進み続けられる……」

あまりにも長い話、しかしこれが私のこの数カ月の目まぐるしい私を取り囲む環境の変化の中で出した答えそのものであったのだが、聴き終えた彼はそれを一笑に伏した。

「バカバカしい、そんなに私の東京が気に入らないかね」

「受け入れられるかよ、"お前"の東京は」

強めた語気で、今度はヒカリエ=シブヤが前へ一歩踏み出して、かつてトチョウ=シンジュックと呼んだ男と向き合った。

「何?」

「東京化計画は間違っているよ。全ての地方の共同体から人間を根こそぎ移住させて、父さんが望む世界のために永遠に働かせるなんて世界は、間違っている。そんな虚飾の繁栄を人間は望んでいない」

「ヒカリエ、どこでそれを?」

「僕が何年あなたの息子だったと思っている?」

「嫌だな、自分の考えをこんな年下の小僧に悟られるというのは。つくづく本当の子供を持たなくてよかったと思うよ。君は父さんと呼ぶが……私が君を息子だと思ったことはこれっぽちの一瞬たりともなかった」

最早誰もこの歪みきった親子喧嘩を止められる状況にはなかった。

「そうだろうな、本当の父さんと母さんが殺される羽目になったのも、俺が戦争で殺されかけたのも、全部お前が仕組んだことだろう、違うか?」

「よくそんなことをした人間のことを今まで父さんと呼べたものだなお前は!褒めてやる、そして見事正解に辿り着いた。そうだ。そうだとも。神奈川派に近かった君のお父さんにから私が聞き出した。それでスパイの疑いで、いや立派なスパイだったがな、あの両親が殺されるに至った原因は、私ということになるのだろうな。だが私は悪くないだろう?直接手を下してもいないし、私自身は伏兵ではなかった。そしてツインズウェスト博士の死を偽装するのに君の名前を借り騙ったのも勿論私だ。なぜ君の両親が死んだのか勘ぐられたら邪魔だったんだよ君という存在は。。まあ運よく逃げたようだから、監視のためにお前を手元に置いておいたのさ。かわいそうだと思わんこともなかったからな。」

私であったら耳を塞ぐか正気を失うか、あるいはその口を指の爪で突き刺してやりたくなるような、そんな長い言葉を聴き終えた後で、静かに怒りを燃やしたと見えるヒカリエ=シブヤは、これまで私も聞いたことのないようなどすの効いた低い声を出した。

「僕もあんたみたいな人間を父親だとは思わないぞ、トチョウ=シンジュック」

「好きに呼べばいい、私が興味があるのはお前ではない」

「僕はあんたの手駒だったんだな!ナルセの誕生日にここに来るよう仕向けたのも、ミサイルのテストのために熱海から奇襲する人間を呼んだのも、全部あんただったんだな!」

「それがどうかしたか?」

まるで人が変わったかのような急な激昂の後で、ヒカリエはもう人間のそれではない叫び声をあげて、あたりから手早く人を殺せそうなものを探ろうとしているのを見て近くにいたツルカワが必死に止めにかかった。それは最早私が本で読んだことのあるワンシーンのようであったが、トチョウはその様子を見てまたしても冷たく笑うのであった。

「無様だな、仲間割れか」

 友人二人の喧嘩のようながある程度沈静化したと見えた時、私が一抹の希望を一目見ただけで掛けていたものを脅かす、恐るべき事態が起こっていたのを私はこの目で見た。

「まあ、その、なんだ。」

次第に言葉を発した男の体躯が伸びていくように思えたほど凄みを帯び始めた声で、トチョウ=シンジュックは私の方を見ていた体を腰から時計回りに捻じ曲げることで誰へ向けた科白なのかを明白なものとした。

「変な真似はよせ、ツインズウェスト博士。」

私は知っていた。父が何をしようとしていたのか、ちょうどこの恐ろしい男を挟むように立っていた父がどのような動きを何の目的を持ってしていたかは余りに単純なことだった。それをこの男に悟られぬよう私は懸命に、異常な野望を宿した瞳だけを見つめていたしそれは成功していたように思えた。また、二人が男の注目を惹きつけんとする咄嗟の試みも、恐らくは成功していたのだと思っていた。しかし今、望みを成し遂げんとする心は父へ向けて裂けるほど張り詰め伸ばした腕の先に構えた銀色のピストルの引き金を支配する右手人差し指に全て集中していた。

「そいつを降ろせよ。降ろさなければ私は撃つ。君の息子も撃つ。君の戦友の娘も撃つ。いいのか?それで」

父は震えながらにして棚から取っていた小銃を捨てた。私には分かった。彼らは十五年の歳月の中で、たった二人の戦争をしていたのだ。そしてその戦争は、父の敗北でたった今幕を閉じた。

「いつから?分かっていた。いつからお前は、俺がこうすると分かっていた」

「いつから?最初からに決まっているだろう。君が言い訳に選んだ物資不足、神奈川を転移させる代案、十五年後の戦略、その全てが嘘だと私は最初から気づいていたさ。勿論君が君の希望を頼りに、また君の希望がここへ私を招き、そして君が最後に私を殺そうとするだろうということも、全て、全て」

最早この二人の間に誰一人として立ち入ることは許されていなかった。

「だが目を瞑っていた。君にそれで揺さぶりを掛けたり脅したりして舌でも噛み切られたら元も子もないからね。だから私は十五年待ったのさ。自分の人生の相当な時間をかけて遠回りしても手に入るのなら仕方がないと」

それから銃は相も変わらず構えたまま、目線だけ父の手元から滑っていった銃を見ていた。

「そして別に君はそれを使う気もなかった。只私を脅して、私が忍ばせていたと直感で分かっていた銃を捨てさえさせられればそれで良かったのだ。それから息子が私に飛びかかってスイッチを奪えれば、とかな。お前も平和を願っているから撃てはしないんだな、違うか?そうだろう?ええ、そうだろう?」

怒涛の問い詰めの中で逆上の赤色まで帯びていた至極厳格な表情をふっと緩め口から息を漏らしたと思うと、けらけらと不気味な笑い声を腹の底から出していた。

「だが……遠回りをして良かったな。その顔に浮かぶ絶望はその時間の代償にしてはお釣りがくる傑作だ。次そんなことをしたらタダで済むと思うなよ。お前がそれを拾ったと見えた瞬間、お前の息子は射殺される」

この恐ろしい脅し文句の時に父が私へふと向けた瞬間の目線で、それは絶望と呼べるものではなかったそれで、私達が父のために時間を作った様に、父は私に時間を与えたのだと私には分かった。私が今から手にするものが、自分の持つ実弾より強いということを父は察して演技をして見せたのだった。それで私は決心をせねばならなかった。例え私が死ぬかもしれぬとしても、私には私にしかできないことがあった。男がさて、と切り出して問答のうちに切り返していた脚を襟を正すように元の位置へ戻そうとする一瞬のうち、私は決意の答えを、素早く取り出した物を支える両腕に託した。

「親子揃ってバカらしい。お父さんが守ってくれた大事な命を自ら無駄にするというのか?親不孝なやつだな」

「お前は親孝行が過ぎると思うぜ」

手汗がどうしようもないくらい湧き出てきて今にも落としてしまいそうな手に持った凶器を私は必死に掴んで、少しばかり震えながらに彼だけを狙っていた。

「何?」

「油断したな、お前は俺に銃を構えさせた時点でもう負けている。俺は知ってるぞ。お前は俺を殺せない。俺がこの銃を下げるまで何十年でもそのまま銃を構えるだろう。だがその間一度もその銃口から煙は上がらない。お前には人を殺せないからだ」

私は照準の後ろにいるもう一人の腰が抜けてしまいそうな男が、よくやった、と言わんばかりの満足げな表情をこちらに浮かべてきたのを見逃さなかった。それで思わず私も変になってしまってはいけないと思って、きっと辿り着けた正解の証明を述べ続けた。

「お前が父さんを連れて行った時のことだ。その犯人をヒカリエだとしたのは、シブヤ家が東京で根強い力を持ち自分の邪魔になるかもしれない、そしてヒカリエの親が死んだ理由が自分が命じたスパイ行為のせいだと分かれば逆恨みに自分を殺してくるかもしれない、そう言ったよなあ。別にそこに疑問はない。問題なのは、なぜお前がヒカリエを直接殺さず、間接的に敵兵に情報を流して殺させるなんて回りくどい方法を選んだか、だ」

本当は最初から冷静であっただろうヒカリエはずっと黙って聞いていた。

「父さんもそれを見抜いていただろう。確かに死なれちゃ困るだろうが、東京化装置を完成させた後の父さんはお前にとって用済みだったんじゃないのか?そして奇襲をかけられるかもしれない存在だった。なのに父さんは、生きてる。どうしてだ?」

目の前の男の鋭い眼光が私を貫くのを、私は必死の思い出跳ね返してやろうとした。

「答えは一つ。お前は人を殺すのが怖いのだ。自分の父親を自分が殺したと思ってから、お前は戦争でも首長でも悪者であってもどんなお前であっても殺せないんだ。だからお前には俺は撃てない。お前は不道徳でありながら道徳を捨てられていないんだ」

静寂が空間を支配した後で、その所有権を再び自分に戻さんがために、トチョウは狂ったように笑った。

「よく分かったな。いや、そんな話をしたこともあったか。だが、お前には俺が撃てるか?お前は自分が心底軽蔑する悪者でさえしなかった悪をその手で体現出来るのか?父親の理念と自分の理想を、たった数センチの指の動きで壊すことが出来るのか?」

「出来るとも。ああ、出来るさ」

「言ったな。そこに覚悟はあるか?お前は本物か?よし決めた。十秒数えて待ってやる、決めたぞ。ゼロになったら俺は悪になる。お前を、お前達を最後の犠牲としてやろう。たった十秒でお前は悪になれるというのか?さあ行くぞ」

十、と言う声が響いた瞬間に、私の決意は重いトリガーに力を加え、弾丸は彼へ向かった。彼はその衝撃で片膝をついてみせ、また脱力しその手から銃を離した。だが決して彼から赤やどす黒い色の血は流れず、また彼も一瞬のうちにその異常に気づいたようであった。

「貴様、何をした、何をした!」

「言っただろう。俺はミサイルを五十分割した。それを一時間に一度ここに着弾するようにちょうど二日設定したら必要な小型ミサイルは一体何個だ?」

言葉になっていない叫び声で、コートからスイッチを取りだした右手を私は的確に狙撃した。着弾の衝撃で装置は手元から離れ、私の手中に収まったが、二発の銃弾を受けてなお男は一切傷ついていなかった。私はこの世界一優しい兵器を作った父とグランヴェリ婆さんに心から感謝を言わねばならなかった。

「着弾地点は神奈川県になるんだよなあ、そうだよ、お前は今日から神奈川県民だ。お前の敗けだ」

 

「父さん、ありがとう」

近寄ってきた父に、あの部屋で出会った時には言えなかった、心からの感謝を述べられた。

「俺はお前を信じてよかった」

もう背丈も同じくらいの父親に、幼かった頃の記憶と同じように頭をくしゃくしゃと撫でられてなんとなくむず痒かったが、ただ嬉しさだけが体の底から込み上げて来た。

「それで、東京都民化は元に戻せるの?」

「何、簡単な話だ。最初撃ったといったのはハッタリだろ?なら五十から三を引いてみろ。それで生きてる共同体は全部まかなえるだろ」

それで私はツインズタワー、それは私達の父親の名前と同じ塔であったのをこの時知ったのだが、そこに仕掛けた極めて原始的な落下装置を止めることにして、ツルカワが昇降機を行ったり来たりしてそれらすべてを持って帰って来た。

「ずいぶんちっちゃくしちゃったけど、ここから飛ばせるの?」

「俺を誰だと思ってる?」

「ナルセ=ツインズウェスト博士?」

「違うな」

そういうと、あの頃の笑顔が遅れてようやく戻って来た。

「お前の父さんだ」

綺麗に並べられた小さな小さなミサイルが上空へ一斉に浮かんだ後、青空に白い尾を弾きながら向かうべき場所へてんでばらばらに飛んで消えていった。もうきっと耳にするのでないであろう機械の声が四十七回の成功を数えたあとで、私はようやく胸をなで下ろすに至った。

「これで終わった。これで全ての人類は神奈川県民になった。父さん、やったよ。俺。」

そして私達は大声を上げて騒ぐこともなく、静かにそれぞれが歓喜を心のなかで噛み締めていた。それから、両腕を縛ってはいたが最早気力を失い柱にもたれ項垂れるだけのトチョウを、ひょっとするとこれから彼を父親としてもう一度考え直すかもしれないヒカリエという私の友人に向かって、一つの頼みごとをしようとしていた。 

「生きている人全員に言いたいことがあるんだ。だからまた旅に出ようと思う。ヒカリエ、悪いけどしばらく車を貸してくれない?」

「いや、その必要はないさ」

父はミサイルを打ち出す機械の前に胡坐をかくように座り、そういって私を呼び止めた。

「食料施設同士が通信できるのは知ってるな。このミサイル発射装置はその通信システムを繋げ続けることで全ての施設に連絡が取れるんだ」

「そういうのは先に教えてくれよ! 」

「あれ、書いておかなかったか?」

もちろん何処にもそんなことは書いていなかったはずである。それさえあれば、西で絶望を味わうことも、北で死を感じるような体験も、しなくて済んだはずである。しかしもしそれが残されていてこの通信システムを知っていて、この場所から全てを終わらせようとしていたら、恐らくそして間違いなく私は今東京都民だったであろうと思うと偶然かは知らないがその事実が書き留められていなかったことに感謝するほかなかった。私は父の言うとおりに従って、機械の前に立った。父の合図を受けて、私は今まで出会った全ての人へ向けた声をあげた。

「全神奈川県民の皆さん、私が神奈川の代表ナルセ=モディルミネです! 」

機械から耳障りな高音が鳴ったので思わず耳をふさいでそれが収まるのを待ってから、少し静かな声で、しかし確かな声で、私は続けた。

「この国の全人口は神奈川県民となり、晴れて神奈川県は統一されました。皆さんの協力あってこそ成し遂げられたことで、ここで感謝を述べたいです。本当に、ありがとうございました」

私はお辞儀をした。私の声を聞き、私の姿を見る人がどのような思いでいるのかは私には分からないが、私の心からの想いが届くようにと、深く、深く礼をした。

「私が目指すのは世界の復興です。在りし日の輝きを再び人類に齎さんが為に、私はこれからの人生の全てを抛つ覚悟でいます。そしてこの夢に終焉の中に暮らす皆さんが協力してくれるというのであれば、ぜひ力を貸して欲しいんです」

まとまりのない考えはあっても具体的に何を喋るのかは全く考えていなかった。だが、喋るべき言葉がまるで何者かに導かれるように私の舌から軽やかに滞りなく発され続けていた。

「ですがこれは"復興"であって"復旧"ではないのです。かつてのようにあれとも言わないし、何をしろと命じもしない。ただ誰しもがやりたいことを自由にやれる、そうして前に進める、そういう世界を神奈川で作りたい」

後ろにいる四人は、ただじっと、機械の向こうの人々と同じように私のいうことを聞いていた。だが彼らがいて、初めて私はこんなことを考え喋れるようになったのだと、その時初めて気づいたのだった。

「皆さんは神奈川県民であって、だがそれ以前にマチダの、トーキョーの、オーミヤの、オカヤマの、モリオカの、すべての、そこに生きる人々です。どうか誇りを持って生きてください。希望を持って生きてください。そのために、神奈川は皆さんを守る手段でありたい。共同体同士の行き交いの手段を確保します。文化の進展や交流の促進のための整備をします。約束します。そして……自由に暮らしていただきたい」

ほんの一息だけついてから、波のように押し寄せる私の思いを腹の底から声にした。

「いつの日か、この絶望を抜け出したその先の世界で!」

 

 

 

 それから、私達は変わりゆく季節を追いかけて過ごし始めた。今までの私達は流れ続けるそれをただじっと見つめているだけであったが、もう足踏みしているばかりではいられなくなったのだ。そしてあの日から八つの季節が巡り二年の月日が流れたよくある晴れた空の高い日のこと、そうそれは二○九五年九月三十日のことであったが、私達は海を見ていた。母なる川を下りきった場所にあったショナンはこの世の終わりのような場所ではなかったということを、私とツルカワと私の父は実感した。果てしない海と美しい造形をした島は、間違いなく十九年と三百六十四日の人生の中で最も美しい光景であった。そういう意味では、もしもこの世界が終わりまで辿り着いた時に見る極致の景色だとすれば、伝承も合理性を保つのだろうと、砂浜にどこまでも置かれた直方体に腰掛けながらなんとなく思っていた。だがその眩い海の煌きは、西の果てで見たあの日と同じ真白な煌きは、今も変わらない残酷な事実を波と一緒に私たちの元へ運んでくるのだった。

「この海には触れられないんだよね。昔の人は海の中に入ったんでしょ?」

珍妙な形をしたグレーの何かに腰掛けていたツルカワは水を避けるようにそれから降りてきて、ぼんやりと黄昏の波打ち際で掴んだ石を遠い海へ投げつけていた私の父に尋ねた。

「ああ、そうだな。俺が子供の頃はみんなこの海で遊んでた。」

こんな風に、と近づいてきたツルカワの注目を引きつけてから、手頃な石を地面に出来るだけ水平に投げつけると、石は魔法のように水面で跳ねて、四回目で黒い海に溶けた。側へ寄った私にお前もやってみるかというので適当な石を飛ばすと、全く跳ねないでごく近くで低い音を立てて沈み消え二人に笑われたのでむっとして、それでもこの時間が私は欲しかったのだと、残り僅かな光源でも分かるように笑ってみせた。

「今は石ころ一回すら飛ばせないけど……いつか、いつかきっと、俺か、いや、俺の子供か、俺の孫か、知らねえけど、いつかはきっと、この先の世界へ俺達が渡ってみせる。」

そのために私は戦ったのだ。

「そうだ、婆さんが父さんの本を借りに来たよ。一から勉強をするんだ、って意気込んでる。あれだけ施設はもう作れないって言ってたのによ、作る気になったんだ。俺はそれが凄い嬉しい。そのせいで誕生日に仕事しなくちゃいけないのは、ちょっと複雑だけど」

「まあいいじゃないか。明日から一人で働くことの方が、気が引けるだろう?」

父はそう言ってまた手元から放った石が今度は五回飛んで、どこか知らない深い場所へ行った。ちょうどその時のこと、潮騒、というらしいこの音に混ざって、秋という季節が見せる美しい橙の空気で澄み渡った空に"メロディ"が流れた。それはマチダで聞き慣れたあの不快な旋律ではなくて、私の心のどこか深い場所へ染み込んで切なくさせてしまうような、そんなものであった。

「いい音だね、これ」

「本当はこういうのが"音楽"ってやつなのかもな」

なんとなくそう言うと、音楽、と反芻したツルカワは流れた音をその口で一つずつ丁寧になぞって、繰り返してからこういった。

「なんか私、これ好きだな。ねえナルセ、おじさん、他にも音楽、ってないの?」

私には知るところがなくて父の方を見やると、父はその低い掠れた声で、そのメロディに言葉を付け加えてみせたので私達は吃驚した。音楽というのは、こうやって何かを伝えるものだったのだ。

「知っていたかい?これは早く帰りなさいって合図なんだよ。そろそろ帰ろうか」

歩き出した砂浜から振り返ると、戦争の火種だった大きな山がその形を美麗に見せていて、もう沈んでしまった夕陽が残り香のように空に帯に浮かべたオレンジに何か懐かしいところを感じて、そしてその上を占める深い紺色が早く帰らなくては、という気分にさせて、先に歌いながら歩いていってしまっていた父とツルカワを走って追いかけた。海岸沿いに止めてあった車の灯具はあの時壊した右側の部分もいつの間にか丁寧に修復されて光っていて、目指す世界の始まりがこんなところにも表れているのだと感動したのだった。

「何か?」

暫くライトばかり見ていた私を不思議がって声をかけてきた。

「いや、ずいぶん明るくなったな、と思って」

「私が直したからね、ええ。でも今日は要りやしないよ?こんなもの」

「なんでですか?」

男が改良して後ろにも座れる場所をつけたので、もうそこに腰掛けていたツルカワは純粋な興味で運転席に座る彼に声をかけた。

「なぜって、ねえ。上を見なよ」

私も、父も、ツルカワも、そして男も、ついさっきまで青色だった黒い天井に浮かぶほのかに白い月を見上げて、納得以上の感情を見出して全員見とれていたのだ。

「こんなにも明るけりゃあ、進む道なんてすぐ分かる、そうだろう?ナルセ=モディルミネ君」

「そうだな、さてじゃあ運転をお願いしようか」

そういってなんの重大な意味もなく、男の名前を呼ぶのであった。

「トチョウ=シンジュック」

 

「トチョウさんも来ればよかったのに、どうして来なかったんです?」

隣に座るツルカワが夜を走る中でそう聞いた。トチョウ=シンジュックが改造を請け負った神奈中軍事車は後部に蹲ったりしがみつくようにしなくても二人が乗れるようになったほか、私が壊した白色灯の修復、雨降りになった時のための屋根、車外へ振り落とされないようにする装置、など、過去の遺物を参考にありとあらゆる改良を重ねていたが、車内用灯具だけは多少ましになったとはいえ相変わらず頼りないものであった。

「なに、私もあそこから見れていたからな」

「海を?」

「君達が作りたい世界をだよ」

そういって最大の改良点である機械式自動操縦に身を任せながらも一応はアクセルを踏んだり操縦桿を握る彼は、あの頃とは全く違う表情、いや、あの時初めて出会ったのを心から出しているような、そういう表情でいたに違いなかった。

「それで、二号機はもう出来たのか?いい加減俺達もこれを自由に使いたいんだが……」

神奈川県民になった彼については、最初は未だその野望を心のどこかに廃棄処分せずに残しているのではないかとも思っていた。ある日突然車を貸して欲しいといって来てからずっとあの四十五階の建物にこもりきりで、何をしているのかと思って見に行けば車をバラバラに分解したので怒りが込み上げてきたのだが、隣に置いてある図面を見て、その車をそっくり其の儘書き上げたのを見て、彼もまたこの世界で歩み始めたのだと分かった。それで今度は自分で日本中原料を探しに行くといったのを許して暫く車がなかったものだから、二年経って私たちは今日初めてかつての人類が享受した"ドライブ"という文化を知るに至ったのである。

「二号機?なに甘いこと言ってんだ。私はもう五十も作ったぞ」

五十、と驚嘆の大声を三人揃って出したものだから、トチョウはその後で噴き出してしまっていた。

「いやまあ、結局原材料は見つからなかったけどな。だが二年で色々巡って地面のなかで眠っていた奴を掘り起こして図面に沿って修理して、各共同体一個ずつは確保出来た。これで交流はより盛んになる、そうだろう?」

「ああ、ありがとう」

「俺がここまでやってんだ、お前ももっと、もっと、もっとその先へ進んで見せろよ」

私はもうこの時半分、いやほとんと全部、彼と向かい合って銃を向けたことを忘れかけていた。

「あ、そうだ」

ツルカワが素っ頓狂な声を出して、何か思いついたようでわくわくした様子であった。

「どうした?」

「忘れてた。今日お父さんが、うちでみんなでご飯食べないか、って」

「へえ、何か珍しいものでも?」

そういって前方に座っていた父が振り向いて好奇心のままに聞いた。

「ううん、お米です」

昨年のこの頃、彼女の灰色の創造の地が黄金色の大地に見違えるほど変わっていたのを目にした時、私は昔の人々がなぜ取り憑かれたように黄金を追い求めたのか、なんとなく分かったような気がした。それと、私にはまだ知らない秋があることを知って興奮したのを、ふと思い出した。

「そういえば米って色んな種類があるらしいぞ。今度違うやつが届くことになってるんだけど、育てられるのかな?」

「たぶん大丈夫。田んぼ作りすぎちゃったから、ちょうどいいよ」

 

 夕食の誘いを断りシンジュクへ帰るトチョウに、ある人への手紙をそのついでに渡して欲しいと頼んだ。本来こういう仕事は郵便制度のある程度整った今、飛脚に頼むべきことであったが、なんとなくなるべく早くその人へ届けたくて、彼へ頼んだ。人々の行き交いが自由になってから、私達の世界には交流が生まれ、新たな職が生まれ、文化が生まれ、希望が生まれた。そしてその翌日もマチダに何人かの訪問があった。その中には旧友であり戦友でありそして何より親友である、ヒカリエ=シブヤが含まれていた。息を切らして寝惚け眼で遅くにやってきた彼が手渡したのは私の二十歳の誕生日の贈り物のようであって、早く開けろと急かす彼に従って封を切り現れたのは一冊の本であった。

「今日は仕事だって言ってたろ?別に本読むのは急がないから、明日でも良かったのに」

「いやそうはいかないんだ」

直方体の父に代わって本物の父が新たなにこさえたまだ何も入っていない本棚のすぐそばで腰掛けていた私は、蔵書とは全く違う匂いのするその本をそこへ入れた。しかし彼はそれをまた取り出して私へ押しやるのであった。

「最後まで読めば今日で良かったと思うから、ね」

そう言って彼は代わりに父の蔵書を何冊か借りて行って、母の用意していた夕飯を急いでいるかのようにすぐ平らげて、私の見たこともない形と色をした車に乗って帰っていった。私は片腕を振ってそれを見つめていたが、いつまでも後部の赤い灯だけは暗闇に残っていたような、そんな気がした。それで玄関の戸を閉めて、貰い物のその本を取り出してから寝台へ行って私は直ぐ中身を読んだ。そしてそこで語られた物語を締めくくるのは、このような言葉であった。

 

「ここに小さな世界最後の戦いの終わりを記念して、また恒久なる世界の平和と発展を祈念して、町田の自宅にて筆を擱く」

 

二○九五年 十月一日 作・ナルセ=モディルミネ

『町田戦記』

 

町田戦記 Ⅳ

  私はもう分からなくなっていた。父を慕いまた父の希望として見出された自分という存在をある意味では証明するという部分があってこの秋から冬にかけての時を駆けてきたつもりであったが、それは父が既に死んでいるという私の中では絶対的たる前提があってこそであって、その前提が失われては私はこの季節の流れの中でどこへも向かわずその場を漂流していて時間の流れに抜かされていってしまったような、はっきりと一言でいえば虚無という様なものが心に錨を下ろしていた。私はノックもせず、目の前の重い鉄の扉を殴りつけるようにして開け放った。両開きのそれが壁に勢いよくぶつかった轟音に驚くこともない様子の男がそこには一人だけ立っていて、しかし湯気の立った茶が客用に二つ分出されていて、私を翻弄するこの何者かへの張り裂けんばかりの苛立ちを今に声にしてみせようと前へ進もうとしたが、落ちついてと極めて小さな声を出して、弱々しくも私を引き止めるに十分なほどの力で私の袖を掴んだツルカワの忠言に従うこととして、その場で立ち止まりながらに男と対峙する形となった。それでとりあえず私は彼の発言を待つ事となった。

「ずいぶんと早いお久しぶりだね、ナルセ=モディルミネ」

「ええ、そうですね。それで、父はどこですか?」

まあ入って座りたまえと純白の容器を指し示した彼自身も、私の沸き上がる怒りを察知しているであろうに、来客もない一人の夜とまるで変わらないばかりの寛ぎようを長椅子に腰掛けて見せてきたのであった。

「こうなることは最初から分かっていたさ。だから私も呼んである。出てきたらどうだ?ナルセ=ツインズウェスト博士」

合図をすると私達が入ってきた方角と真反対にある小さな扉が軋んだ音と共に少しずつ開かれて、その先の照明のない暗闇の中に一人の男が姿を現したのが見えた。彼が歩を進めることで、横側の美しく湾曲した大窓から差す暖かな太陽の光線が男の風骨を徐々に露わにした時、私は完全の無意識の中で言葉を発していた。

「父さん……」

 思わず立ち上がった私と向かい合うようにそこにいたのは、私の記憶の中にある父と連続して存在することを決して否定もできない、本当の私の父である人物だった。私が知っているより少しばかり痩せこけどことなく情けない面持ちをしているが、それでもその眼は、私を見るあの眼は、いつまでも変わらず父のものであった。

「大きくなったな、ルミネ……」

近づいてくる父親に対して、再会の喜びと偽りの生死への怒りとがいっぺんにぐしゃぐしゃになって湧いてきて、私にはどのような返事をしていいのかわからなかった。

「父さんは、何をしてる?どうして母さんや俺を置いて、こんな所にいる?」

「申し訳ないと思っている……十五年も父親の職務を放棄したのは……うまく言えないが……今は、こうするのが一番なんだ……」

含みのある俯きの後で、親子の再開は別の男の声によって中断された。ぶ厚い雲が太陽を覆い隠して大部屋は少しばかり明度を落とした。

「博士は人類最後の知識人だ。君はもっと自分の父親の偉大さを知ったほうがいい」

「その、博士、と呼ぶのはやめてもらえませんか」

「普段は否定しない癖に。まあ厳密には博士ではないな。博士を志した、それだけの人間だな」

そういうと、私が、幼かった私が悪戯をしかけて苦しめた時と同じような、噛み潰すまでは行かずとも苦虫を舌の上で転がしたような、そういう決まりの悪い表情を浮かべて、それからまたしてもあの頃と同じような誤魔化しの笑顔を浮かべたのがどことなく腹立たしかった。それで三歳児のそれに近い、人を困らせる揶揄いをするこの大人に少しばかり苛々し尖った声を出すことに決めた。

ハカセ、って何ですか?」

「昔の職業だよ。君達はあのミサイルがどういう原理で動きどういう原理で神奈川県化を出来るか、理解しているかい?」

「いいえ、特に気にしたことは」

「だろうな。普通の人間はそうだ。だが普通じゃない人間もいる。そこにいる人間だとかな。ミサイルを動かすには物理、電機、材料、そういったものに精通している必要がある。大学はもうとっくの昔に解体されていたから、本で学んだんだろう。」

ああその通りだという父の感情の欠片もない発言によって、私は父の部屋にあったいくつかの難解な書類、およそ家に来る誰も、そして私でさえ興味のなかったそれが、父にとっては最も重要な原典であるということを今更ながらに知った。

「だが土地の所有権を強制的に書き換えうる科学など過去にもなかった。そこで次の質問だ。君はミサイルを撃たなかった場所をどうやって神奈川県にした?」

四人で机を囲むことになっても、座りながらにして目の前に座る二人の男を交互に見つめるのを私は決してやめなかった。

「説得です。そこに住む人と話し合って、メリットを提示して、合意してもらって」

「それだよ。そういう人心掌握を錯覚のようにして強制的に行える機械が、あのミサイルの中には含まれている。だから本棚にはきっと心理や洗脳の話の本があるはずだ。」

私は父についてその知っている側面を、何も知らないはずの男に暴かれていくのに少しの恐怖と、それに何もかもを明け渡しているように見える父親への苛立ちとで不愉快になっていた。だがしかし、なぜ父はこうも押し黙っているのだろうか?

「着弾地点から50kmを物理的損害なしにそこに帰属する者を神奈川県とする……だがどういう応用であのミサイルを実現出来るのか私には理解出来なかった。私の部下の誰も考えつかなかった。そこで君のお父さんに手伝ってもらっていたのさ。」

「手伝う、ですって?」

「ああ、恒久的な世界平和の実現という理念で私とツインズウェスト博士は一致していた。だから協力を仰いでいたのさ」

そのひとことだけで、父は理想の父の姿を保ちながらも私が持っていた理想を瓦解させてしまっていた。私に理想を託した過去を捨てて父は新たな理想の担い手と希望を打ち上げようとしていたのだ。それも、もう私が三つであった頃から。

「何をしてるんです?平和を目指して、父さんは、家族を捨て味方を捨てた父さんは、あなたと今何をしているんです」

「私の目指すところは一つ。東京都の復活だ。」

俺は父親に質問したんだ、と言いたくもなったか、やり場のない怒りの発散より馴染みのない言葉への確認が優った。

「東京都?」

「ああ。私やヒカリエが共同管理している東京特区共同体とは別物だが、それのルーツみたいなものだ。東京は昔この広い地球という惑星のどこを見渡しても置き換え難い世界最大の都市だった。」

そういって手元の黒い機械を静かに押すと、またしても初めて訪れた時と同じように別の世界が宙に浮かんで動き始めた。よく見るとそれはここであった。だがそれはここであって今のここではなかった。私が初めてこの廃墟群に足を踏み入れたのと全く同じ角度を映し出したその映像では、どの建物も生きていて、眩いばかりの光を私達の目へ何十年越しに放っているのであった。

「美しいとは思わんかね?千五百万の人々が生き、文化が狂うように咲き乱れる東京という都市は。私はここを作りたいと長らく思っていた。君のお父さんも勿論これに参加してくれた。あの戦争の折、私達は最早敵同士ではなかった。同じ方角を見る仲間だったのさ。でもそんな言い訳通じないだろう?だから少しの間、そう世界が東京になるまでの間、死んだふりをしてもらっていたのさ」

父親に真偽を確かめても、やるせのない首肯だけが帰ってきた。それから立ち上がり映像へ近づいたトチョウは大きな別世界に両手を伸ばしてみせて、もちろんそれに触れることはないのだが、私の方から見るとまるで彼はそれをもうその腕の中に収めたようであった。私はそれを少しだけ、本当に少しだけだが、羨ましいと思った。

「神奈川には一つ性質がある。それは東京になりやすいことだ。転移しやすい、とも言える。神奈川にかつて住んだ人々……神奈川県民は、その帰属が曖昧だった。出身を尋ねられて神奈川ですと答える者は稀で、横浜だ、相模原だ、藤沢だ、小田原だ、もっと細分化された場所への帰属性が強く、それを内包する存在たる神奈川は弱いんだ。まとめる力が、とても弱い。だからすぐ東京になれてしまう。逆に言えば東京は結合力がある。神奈川化ミサイルを作った頃より遥かな物資不足と技術の紛失とで博士の手でも東京化ミサイルという強力な装置は作れなくなったが、その性質に着目して君のお父さんの手で五発のミサイルと併用する形で神奈川県東京化ミサイルだけはなんとか一発だけ作れたんだ。」

「一発だけ、ですか」

「そうだ。今度は一発でいいんだ。塗りつぶして上書きするだけなんだ。これは人類が最後に持つミサイルだ。だから一発だけが必要なんだ。それで東京都は確立される。それ以外は、いらない。」

それから、分かったら君達も残り一発のミサイルをすぐに捨てなさい、と強い口調で言ってきた。相変わらず映像は流れ続けていた。

「どうだろう?見たまえ、この美しさを。欲しいとは思わんかね?この誇りを。さあ、東京都を受け入れてくれないか?これを実現するには人々が必要なんだ。労働が必要なんだ。分かってくれるだろう? 」

私の目に入ってくるヒカリエやトチョウが着ている様な端正な黒服を着た人々が無数に蠢き行き交う街の姿を、そして彼らの見せる希望に満ちた目を、心のどこからともなく欲しいと思ったことに間違いはなかった。父は決して私を見捨てたり五発のミサイルと共に過去のものと扱ったりするのでなく、むしろ事情によってとはいえ私が彼の理想にとっては必要不可欠な存在であったことを理解した。遠回りをしたのであろうが、ミサイルと未来の私の行動に託したことによって、トチョウという理想を掲げる男と巡り合い、新しい世界の創造という平和のその先までを叶えるに至った……だとすればそれをしっかりと私に向かってそう言えばいい、そういう多少の不満は抱えていたが、何を自分が欲しているのかを考えればこの誘いは受け入れるのが最善な様に思えた。

「父さんがそれでいい、って言うなら……」

「いや、今日のところは帰らせてもらいます」

私が出したか細い声を掻き消した隣に座る少女の力強い一言を聞いたその瞬間、その場にいた誰もが彼女に驚嘆の目を向けた。彼女は明らかに場の空気の流れのようなものをわずかな時間のうちに書き換えてしまった。そしてこの時の父の表情を私は確かに見逃さなかった。

「ええ、じゃあ俺もそうしますよ。今日は、一旦」

長い溜息をひとりでついた目の前の男はまあそれでも構わない、としぶしぶ言って私達の退出を許可した。それで今度はゆっくりと鉄の扉をこの手で閉めた時、その先でどのような会話がなされているのか聞こうとも思ったが盗み聞きをするにはあまりに頑丈な鋼鉄がそれを阻んだので私達は他にすることもなくて、だが心に両腕では抱えきれない程の沢山の感情を抱えながら階段を降り始めた。

「間違いない、俺の父さんは、何かを隠している」

今思えば父があんなに喋らないのはおかしかったのだ。それに気づけなかった私もおかしかった。喋ることがなかったのではなく、喋ることができなかったのだ。危なかったね、と何の皮肉も嫌味もなく逝って純真な笑顔を見せるツルカワにまた救われたような気がして、いや恐らく実際のところは本当に救われたのであって、ありがとう、と深々と頭を下げると、いいんだよ、と優しく言うのであった。それで僕らはこの状態をまず報告せねばならない人として、この温かく親切な少女の生みの親、ツルカワ=ツインズイストの元を訪ねることにした。訪れた扉に飾られた環状の飾りはいつの間にか旅に出ているうちに少し様相の違うものとなっていて、おかしな形をした円筒が槍のように玄関の前に、しかも何本も歪に刺さっていた。実のところ私はまたしてもこの家に入るのを怖がっていた。私は、親の仇かもしれないと疑った男にどういう顔で会えばいいのか分からなかった。だがしかし、立ち入った部屋で待っていた、庇の下で不可解な植物への水やりを済ませた男の娘のそれによく似た表情を見たとき、私は自らの罪を告白し全てを打ち明けると決めた。長い今に至るまでの話をし終えた時、その蓄えられた髭が動かした言葉は、まるで先刻の私をなぞるような、たった五文字の感謝の言葉であったので吃驚してしまった。

「どうして、ありがとう、と?」

「ちゃんと全てを言ってくれたこと、君達が誘いに乗らずここに帰ってきてくれたこと、戦友が無事で生きていてくれたこと、その全てさ」 

よく分からなかったが満足そうな表情を浮かべる男に向かい、ここに帰ってこれたのは他の誰のおかげでもなく娘さんの力によってです、と言うと、男は突然に私の父親には見られなかった父親としての表情を娘へ向けていた。

「レミィ、お前はどうして怪しいと思った?」

「一つには、そんなことをしないでも、神奈川県を譲って貰ってそれから東京を作ればいいだけだ、って思ったからかな。何もミサイルまで作る必要はない気がする」

でもそれは神奈川県が不安定な存在だと言う説明で打ち砕けるのでは、と一息ついてから言おうとする前に、まるで見えない何かに対して畳み掛けるように彼女は続けた。ふと見やると父親は目を瞑って黙って娘の考察を聞いていたので私も従った。

「もう一つ。最初から神奈川化ミサイルを持ってるナルセを取り込めば、もっと合理的じゃない?どうして今なんだろう。」

「そうかもしれないけれど…」

「神奈川でなく、東京に強くこだわるわけ。それからまるで横取りするようにしなくちゃいけなかった意図が必ずあると思うんだ。それは自分が何をしているのか途中で露呈したらまずい……それほどのことだとしたら?」

「いや待ってくれ、だとしたら本当に全て終わってから、俺らにばれないように東京化すればよかったんじゃないか?今このタイミングで誘いをかける意味はないだろう?」

「つまり、今じゃなくちゃいけなかったんだよ。本当の最後じゃない、終わりかけの今に、魅力的だって上手く騙さなくちゃいけなかった。後から東京化したってバレたら禍根を残す、問題が起きる、何が起こるか分からないけど、そんなような事を……」

もしもこの場に私達でない別の誰かがいたとしたら、こんな突飛な推察について必ず止めにかかるだろうと思われたが、私とツルカワはそれが恐らくは正解に辿り着いているのだろうという事を、あの瞬間の父の形容しがたい微笑みのような面持に根拠を得て確信していた。そして彼女の父も私達の議論に口を挟むことはしなかった。

「神奈川では出来ず東京で出来る、何か疚しいこと……なんだろう」

「神奈川になくて東京にあるもの、と言った方がいいな」

 

 私はあの扉を叩いた瞬間からの時間を、映画のように一から再生させてみせた。その中でヒントたり得る言葉を私は一時停止して引き出すことができた。

「結合力……」

夢の様な言葉の恐ろしさに一緒に気づいたツルカワは、私が思っていた事そのまんまを閃いてみせた。

「そっか、トチョウさんにとっては自分が東京を作ることこそが重要なんだ。強い力を握れるようにするにはこの形を取ればいい。そうでしょう?あんな理想的すぎる計画はどれもこれも、誰かが強い権力を働かせられる環境で人々を従わせるようにしないと到底達成できないものばかり」

あのようなビル群を蘇生させるのに一体どれ程の人間がどれ程の時間を投げうって得られるものだろう、それもあの男が生きているうちに。それを想像して、私はこの少女が機転を効かせなければ今頃どのような悪夢に加担していたのかと思うと背筋の凍る思いで何も言えなくなっていた。その沈黙の後ではじめて声を出したのは、ずっと黙っていたツルカワの父親であった。

「それで、ツインズウェストは、あいつはどう思っているんだ?」

表向きは、という仮定のような前置きをしてから私は父について語った。

「世界平和のために手を貸して、トチョウのいうことが正しい、そう思っているようでした」

「実際には違うんだろう」

「ええ、もしも彼らの言う事が言葉通りなら、父はもう俺たちと一緒に帰ってくることになんら問題ありませんし、普通ならそうするでしょう。でもそうしなかった。恐らくはトチョウの檻の中でトチョウとは違う未来を信じています。そしてそれが今再び俺達の手に託されたのだということも、分かります」

そこでまだ小さかった時分以来に、ツルカワの父が満面の笑みを私に見せた。

「しかしどうしてトチョウがミサイルのことを知っているんでしょう?同じ設計思想のミサイルを作ろうとしていても、敵軍がミサイルを作っていることなどあの時点でまだ知りようもなかったはず。なのに何故製作者まで暴けたんだ……?」

「考えられるのはただ一つだろう。誰かが情報を漏らした」

「あれのことを知っている人はそんなにいたんですか?」

「存在だけなら噂で、な。負傷後前線を離れたツインズウェストの動向は敵味方問わず取り沙汰されていた。噂のなかに真実が混じることもおかしくはない。だが一つ考えられるのは……神奈川派にもトチョウにも近しい人間がそれを意図的に漏らした、ということだ」

「そんな人間いるのでしょうか……いや、いるな。なるほど。全てが繋がった。」

 

 

 私は別れの挨拶を告げて、その別れがいつまでのものになるのだろうという最悪の可能性への想像を必死の思いで振り払い 、前へ歩くことにした。この道を歩くのがこれで最後になってたまるものか。あの悪党に、想像するだけで身の毛がよだつあの巨悪に、私は未来という可能性をすんなり手渡すわけにはいかないのだ。頭を痛めつける悩みを振り払おうと、またこの決意を一歩ずつ確かなものにしようとしてあげた歩くスピードに、隣を歩くツルカワは何も言わず、ただその眼だけは私と同じ前を見据えて、横をぴったりとつけて歩いていくのであった。私達の間に会話はなく、ただ覚悟だけがあった。そうして辿り着いた螺旋の前で、ヒカリエはただ一人佇んでいた。私たちが来たのを確認してやあと片手をあげる所作まで、まるで自動化されたような極めて不自然で異常な動作をしてみせた。もしかしたら私達も震えたり戸惑ったり、彼から見たらどこかおかしなところはきっとあったのだろうとは思われるが、彼の発言や様子はいつもの彼のように見えてどこか取り繕っているような、そんな様子であった。

「集まった目的はこれからどうするか、だけど……もう答えは決まってるみたいだね」

「ああ、俺達はトチョウの誘いには乗らない」

「そういうと思ってたよ。でも実際のところそうすると僕らはピンチだ。東京都化装置を父さんが握っている以上、強引に断行する可能性もある、というかそうするだろう」

「でもまだ東京都化はされてませんよね?強制的にするなら、もうしていてもいいんじゃ……」

下りきった昇降機からいつもの様に彼はコツコツと音を鳴らして前へ歩み、くるっと振り向いて見せた。

「いや、まだだ。僕達の動向とは別に、一発のミサイルで蹴りを付ける以上世界はすべて神奈川であった方がいい。でもこの世界でまだ最後の仕上げが行われていない」

「まだ神奈川じゃない場所……?」

「東京特区共同体。トチョウの塒だよ。」

「東京特区……ヒカリエがいるからなんとなくもう神奈川のような気がしていたが……盲点だったな、確かにあそこは神奈川じゃない。でもなんで今、このタイミングで?」

「トチョウさん言ってたでしょ、東京特区と東京都は先祖は同じだけど別物だって」

「そうだ。一旦神奈川県にして、ナルセのお父さんの東京都化装置を作動させないと、父さんの望む"東京都"は完成しない。後回しにした理由はおそらく二つ。自分のいるところ以外がすべて神奈川になったところを確認してから最後に自分の手で神奈川にする、それともう一つ。」

「もう一つ?」

私たちに走る緊張の中で純粋な疑問がツルカワの声帯から地下空間へ発された。

「あくまで東京特区はいくつかの共同体がまとまってさらにできた共同体だから、その中の主張であるトチョウの一存では決めきれないんだ。僕らが説得に行ったならいざ知らず、トチョウが突然そんなことを言い出したら他の首長は怪しむはずだ。だがもし自分たち以外はもうすべて神奈川になったという環境があれば……否定する人はいないだろう……」

「それで、決めるのは、いつなんだ?」

「明日だ。明日の太陽が上がりきった時間から行われる」

天井に開いた私達の入り口である丸穴がもう橙色の光線を地下へ差し込ませていることで、事の猶予のなさが急激に私たちを押し潰しにかかった。

「ヒカリエも行くんだよな」

「勿論。メトロポリタン一族の家長が再びイケブクロに戻る事への承認、そしてもう一つは、東京特区の神奈川県化が議題としてもう既に通達されている。おそらく多数決で通るだろうな」

 固唾を呑んだ彼は恐ろしい事実を続けてその口から放って明確にした。

「つまり明日の会議が終わった瞬間からいつでも、トチョウはこの世界を自分のものに出来るという事だ」

「それに俺らが対抗できるのは、これだけ……」

はじめて足を踏み入れた時は五本並列にしてあったミサイルはもう既に最も右側の一つを残すのみとなった。だがこの窮地に陥るに至ってもうあと何本かあればなどという仮定は無意味なものであった。半径五十キロメートルなど何個あっても、トチョウの世界を覆すのは難しいだろうということは誰の目にも明らかであった。

「これをトチョウさんの家に飛ばして神奈川にする、っていうのは?」

「難しいな。東京化をする前にやったら塗り替えればいいだけだ。東京化をされた後でも、もしも一発しか持っていないなんて強気な発言が罠だとしたら、詰みだ。それでも賭けるというのなら、このミサイルは東京化が終わった後に、だな」

「でも東京化をしたら私たちもう都民になるんじゃないかな、そうなったらナルセはこれを撃てるのかな?それこそ危険な賭けだよ」

一方でこの問答に参加していなかった私には引っかかる点があった。トチョウがこれを破棄しろと強い言葉で命じたのは何故か?それはきっと彼の世界においてこれが邪魔だからである。彼は一点でも自らの世界を脅かすような存在を除去しようとしていた、と考えると、この時点で、つまり残り一発になって世界がほぼ全て神奈川になったタイミングでの誘いと東京化の断行いうツルカワの疑問点はもう一点の理由で解決された。私が誘いに乗れば円滑に破棄させることが出来る。その後でどのような思いを私が抱こうが、ある種の王となった者へ無策な私がどのような反抗ができるのかは分からない。それは彼の次の世界での強権を裏付けるとともに、むしろ断った場合には彼がこちらに無駄にミサイルを撃たせたいと思うのではないか、そしてそれを潰しうる策もあるのではないかという考えに至った。そうなると、この一発限りのミサイルはむしろ使わない方が私達には都合が良いものの、そうなってしまっては状況を覆る持ち合わせがないというデッドロック状態に陥った。

 

「最早終わりか……」

諦めのため息も漏れない張り詰めた地下の空気を天井の羽根がかき混ぜ続け、その音がいやに耳に障った。三人が三人、それぞれもがくように打開策を必死になって考えているようだったが、今更私達を明日までに救える光などなく、まるで閉じ込められた扉のないちいさな部屋で出口を探すような、そういうどうしようもなさがこの部屋を漂っていた。

「東京はだめ、でも神奈川でいつづけたら東京になってだめ、一体どうしたら……」

隣で頭を抱えいつになく小さく見えるツルカワのこの悲観から出た言葉がどこかに針で刺して留めたように引っかかった。それはこの無力さに同調するのでも、あるいは諦念を叱咤する気になるでもなく、例えるなら、先程の密室の気にもとめていなかったはめ殺しの硝子窓に微かな罅が入ったような、そういう不可解な気づきのようなものだった。その人間ひとり抜け出せるわけもないその窓がなぜ扉のない部屋に作られているのかを考えた瞬間、私はある至極まっとうなただ一つの事実と透明な壁を己が拳でぶち壊せるような手段とがいっぺんに頭に流し込まれたもので、二人から狂ったのでないかと心配されるほどに、また自分でも口角の引きつりが分かるくらい健やかかつ邪悪な笑顔をしていたのであった。それは偶然でなく、トチョウの部屋で父が見せた表情と同じであるということに私はしばらくしてから気づいた。

「俺はひとつ、あまりに簡単なことをすっかり忘れてた。今の今までな。この世界の食料生産施設を中心とする共同体はすべて神奈川県になったと思っていた……だが実際にはそうじゃない場所がある」

「だから東京特区は明日東京になるんだよ、父さんによって」

「東京特区?俺が言ってるのはそっちじゃない」

ツルカワは親指と人差し指を顎に乗せてうんうん唸った後ではっとした顔を見上げた。合点のいかないヒカリエが痺れを切らして私を問い詰め始めたのは無理のないことであった。

「どういうことだ?早く教えてくれないかナルセ。」

地図は今どこにあるか、と聞くと最初にあった金属製の机の引き出しに綺麗に仕舞われていた。机からそれ初めて私達三人が取り出したあの日の高揚感を今でも覚えている。そしてそれに似たものが、不安定で不純な感情が入り混じりながらも今日のこの瞬間にも私の心にはあった。ヒカリエは折り畳んであった地図を目の前でいっぺんに広げた。埃は舞わず、着地点の机を少し滑ってそれは止まった。

「僕らはこの地図のすべてを神奈川にしただろう」

「確かにその地図に載っている食料生産施設のうち活動が確認されたところにはすべて"行ったことがある"。」

私は広げられた人の上半身ほどもある巨大な旧びた紙の赤い丸の中で一つ、今となっては何処にあるのか手に取るように確りとわかるそこを右手人差指で示してみせた。

「だが俺達は一度も、マチダ共同体首長ツルカワ=ツインズイストに対して、『神奈川県になりませんか』と言ったことがない」

疑うように細めていたヒカリエの目が急に丸くなっていた。人間の目は暗いところである部分が大きくなって僅かな光を入れようとするのだ、と本で読んだことがある。だがもし目の前に絶大な希望があるとすれば人間は、よりそれを取り入れようとして出来る限り見開くのかもしれない、私にはそう思えた。

「マチダは神奈川でもなければ東京でもなくいられるんだ、ただ唯一。これを利用する」

打開策が見出されたことで一瞬歓喜に湧きかけたが、勿論それは完全な解決を意味しないのであって、ややあって私達は一瞬で冷静になった。

「だけど利用するったって、どうやって?」

「簡単だ。都民を利用しようとしているんだろう、トチョウは。だとしたらその命令に東京化のあとで背くやつは、神奈川県民でも東京都民でもないということになる。それが分かったトチョウと父さんは、必ずマチダまでやってくる。マチダを東京にせんがために」

私には一つ信じるところがあった。これまでのトチョウという男の性格、つまり自分は他人をまるで操るようにして自分の理想を楽して得てきた人間がその確証に矛盾点を感じたなら、完成したはずのものに一点の不完全な場所を見つけたのなら、恐らくトチョウという人間はそこを治そうとするはずなのだ。そして恐らく最後の仕上げは己が手でやろうとするだろうということは、最早確信であった。それが最後の東京占領とミサイル除去の双方の目的を持っているとなれば尚更のことである。

「それをやってどうなる?父さんたちをここにおびき寄せて、何が出来る?」

「分からないし……それだけじゃ何にもならない。」

じゃあ、と声を上げようとしたヒカリエを止めて、私は続きを述べた。私には確かに信じるところがあったのだ。

「父さんがそうやすやすとトチョウの手に乗っているとは考えられない。恐らく俺達が考えとして到達した地点は父さんの思考においては通過点に過ぎないと思う。そう考えると父さんが最も望みそうなことは……」

「自分をトチョウさんの権利の及ぶ範囲から引き剥がすこと。」

口を挟んだツルカワの発言に頷いてみせた。

「それが出来ればあとは父さんに任せ……とも言いたいが、一応対策は打っておこう。まあ、あとは俺の言うようにして欲しい。ヒカリエは今から俺たちの家までついてきて欲しい、いいかな」

「ああ、構わないが……」

 

 それから、私達は美しい夕焼けの荒原を駆けて初めてヒカリエ=シブヤという仲間を私達の共同体へ迎え入れるに至った。彼が今どのような住居に住んでいて、どのような生活をしているのか、私の知るところではなかったが、白く薄っぺらい建物はもう彼とは何十と見てきたので物珍しさのようなものはなかっただろう。しかしここは今までのそれらとは違って、確実な意味を持つ場所であった。

「私の家……?」

「ああ、そうだ。俺達はここに用がある」

細く所々修繕した後のある板切れのような鉄階段を昇り扉の前に立つと、私はもう三度めだからという些細な理由だけでなくこの家の扉を開けるのに何の憂もなかったが、ヒカリエはこの家に僕が入って大丈夫なのか、と恐る恐る聞くので、きっと大丈夫と信じさせて扉を叩いた。随分と早い再訪に驚かれて、そしてまた見知らぬ男が一人いることに疑問符を打ち出されたので、私は口の中でずっと言おうと先程から思っていた言葉を滑らかに発音するに至った。

「ええ、こちらはヒカリエ=シブヤです」

ツルカワの父は予想通りかつて宿敵と信じた青年に何も動じることなく、どうぞと我々を部屋に招き入れてソファに座らせた。何もお出し出来ないが、と断る彼に突然の来訪を詫びた。それから自動食料でない、何か別の物を作っている様子が私の家にはない台所から聞こえてきたので余計に罪悪感を感じていると、見かねたのかツルカワ=ツインズイストは直球の質問をぶつけてきた。

「それで、答えを導けたのかい?お父さんの信じるところが分かったのかい?」

「いえ、今からお話しすることと少しばかりのお願い事については、父の信じる未来と結末ではないと思います」

そういって一呼吸置いてから、覚悟を決めて私は堂々と宣言をした。

「私が信じる未来と結末についでです」

 

 長い話が終わってすっかり遅くなったあとで、私はある老婆が未だ帰宅していないのを確認して、ヒカリエに少しばかり付き合って欲しいと言って車を走らせてもらっていた。落日した真っ暗がりの荒野を灯が劈き、吹き荒ぶ夜風が顔面に当たるので精一杯だが、なんとか口を開いて今日中ずっと言おうと思っていたことを夜の帳の中にようやく言い出すことが出来た。

「ヒカリエ、今日の君は変だった。どこがというのではなく、なんとなく、だけど」

風を切り裂く音で聞こえなかったのかと思うほど、長い返答待ちの時間だった。

「僕はもう……よく分からないんだ」

隣に座り操縦をするヒカリエの顔は暗くてよく見えなかった。

「よく分からないって?」

「君が羨ましいんだ。お父さんが生きていたことが分かったろう。なのに僕の実の父親は死んだままで、育ての親は僕にとって今や敵だ。それに君はどこへ向かえばいいのか分かっている。けれど……僕には分からない。」

勿論そんなこと比べちゃいけないって分かってるんだけどね、と付け加えた時に、誤魔化すように笑ったのと、それが本心でないことだけは何となく分かった。車両内部向けのライトはないのかと聞くとしばらく操縦機械のあたりを弄ったあとで本当に弱々しい今にも消えそうな光が少しだけ付いて、それでもやはり隣に座る男の表情はよく分からなかった。

「なあヒカリエ……どうして車の灯具は前ばかり照らすんだろう?これじゃあ隣に座ってる人の顔はまるで見えないだろう」

「必要ないから、かな」

 

「そういうことだと思うんだよ」

「何が? 」

「俺らは前のことだけ考えてればいいんだきっと……今隣に誰がいるか、そこで何をしているか、何を考えているか、そんなことよりも、自分の目の前に何があるか、そしてどこへ向かうか……そういうことを考えてればいいんじゃあないか?」

「面白いな、じゃあさ、後ろについてる赤いのは?」

赤い灯具は今の時代に使わないので気に留めたこともなかった。トチョウの家で見たかつての東京では私達が載っているような車が何台も何十台も列をなして馬鹿みたいに詰まっていて、きっとそういう時に後ろを走る人々に自分の存在を知らせるためにあるものに違いなかったが、最早こんな荒野においてそんなものは意味をなしていなかった。

「今は必要ないのかもな、こんな滅んじまったみたいな世界じゃな」

そう冗談を言った瞬間、車が何か旧時代の遺物か亡骸かを撥ねて少しの間宙を飛び、着地の衝撃があって思わず私達はげらげらと笑ってしまった。その事が、彼と希望に導かれて西の果てを目指した時のことを思い出させた。

「でももし誰かが俺達の後ろを走り始める時が来たら……必要だ」

きっとそうだ。私はどんなに強く白い光線を前へ照射して、たとえそれが半分に砕け散ったとしても、結局は自らがその明かりでずっと切り拓いていくものだと思っていた。しかし現実には私はどんな時もそうであったという訳でなく、父、ツルカワ、ツルカワの父、これから会いに行くグランヴェリ老婆、そしてこの苦悩を抱えるヒカリエと、剰えその苦悩の原因たるトチョウという男にすら時には、進むべき方角を赤い小さな光で示してもらって歩んできたのだ。だから今私に出来ることは、今度は私が前を走ること、それ以外になかった。

「これが終わったらそんなこと気にしないでも生きていけるような、そんな世界を俺が作るって約束する。必ずだ」

ありがとう、と言った時、僅かに目に浮かべた涙いつもの彼の優しい微笑みとがはっきりと分かったのは、目的地である食料生産施設の作業用の光が差し込む場所にまで到着したからであった。

 「着いたよ。帰りは歩いていくのかい?」

ここで待っているよ、と言うヒカリエに、きっと長くなってしまうからと首を横に振って断って、腕を大きく振ってまた会おうと叫んで、それから彼が暗闇の中に完全に消えきったあとで振り向いて、私はしばらく見ていなかった馴染みの建物を目にすることになった。その工場は音を立てずに今日も動いていて私達の生きる術を作り続けていた。中へ入ってみるとグランヴェリ婆さんは滅多に使った試しのない夜間作業用の青白い灯具を天井から吊るしてまだ働いていた。それは恐らく私が何十日もの間この施設での労働をしていなかったからであってその点老婆には申し訳ないと思い、老婆は私の姿を認めると直ぐに貧相なその足で駆け寄ってきたので、私はじきにこの老婆をも救ってやろうと決意を新たにした。だがそれは、少なくとも明日より先の話である。

「あれ、ずいぶん長い間見ないと思ったら、こんな時間に帰ってきて、どうした?」

「なに、最後に一働きを、と思ってね」

 

 それはよく晴れた、乾燥した空気に緊縛された世界の何の変哲もない冬の日の朝であったが、私達はこの日を忘れることはきっと一生涯ない。徹夜明けの朝で私はいつもの、三人でいたいつもの場所で寝ぼけ眼を擦っていた。深夜に起こしてここを開けて欲しいとお願いしたので、ツルカワは机に突っ伏して寝息を立てていた。立ち上がり、天井から朝日を仰いだ。きっとヒカリエは上手くやってくれる。私にはその確信があった。それで今この場所にいるのだった。

 

……

 

 私には確信があった。それで今この場所にいるのだった。今目の前に立つ、かつては私の親であったこの男が今何を目論見、四十五階の窓に映る清々しい晴れの日をどれほど愉しんでいるのか、手に取るように分かった。そして男は振り返りゆっくりと話しかけてきた。

「無事会議も終わったところで。ご苦労様だった。先程ツインズウェスト博士の偉大なる功績、神奈川県東京化ミサイルを放ったよ。着弾地点はこの辺りさ。分かったろう?さっきの揺れだ。もう世界は全て東京都さ。」

そんなことは私は知っていた。そして私がどれほどこの男を知れているかの証明が、これから起こる全てへの自信を齎すこととなった。

「ヒカリエよ、親愛なる我が息子ヒカリエよ、お前は晴れて都民となったのだ。いいだろう?都民は私の思うがままに動き、かつての世界を取り戻すためだけに生き続ける。その先で私たちはどんなに素晴らしい世界を手に入れられるだろう?」

「はい、それは素晴らしいものになります」

私は返事をした。

「長かった、これまで……あの博士を拉致し死を偽装させてから、十五年……決して短い時間とは言えない。だがそれを払う対価として、これからの全く新しい世界は十分だろう」

「はい、それは素晴らしいものになります」

私は返事をした。

「そうだろう、そう思うだろう。そのためにはな、人が必要なんだ。人はもう少ない。だが結集すればそれは力になる。すべての人々を、都民を、ここに住まわせるのだ。そして働かせる。そうして東京は復活する。わかるな?」

「はい、それは素晴らしいものになります」

私は返事をした。

「だからな、息子に二度も足労をと言うのは忍びないのだが、父の頼みだ、また西と北から人を集めてきて欲しいんだ。彼らをここへ連れてきてくれ、いいかな?」

私は返事をしなかった。

「どうした?ヒカリエ。返事が聞こえないぞ」

「断るぜ、父さん」

その瞬間男はようやく年相応の深い皺を眉間に寄せた。

「何……?」

「聞こえなかったのか、断るつってんだよ、"トチョウ=シンジュック"」

私は如何しようも無い腑抜けであった。進むべき道を見失い迷子となって心の中で彷徨っていた私は、しかし昨日の夜のこと、一人誰にも見られず流しきった涙とともに、私は私の弱さ全てを捨ててきたのだ。怒りとともに躙り寄る恰幅良い男に決して動じることもなく私は一歩も引き下がらずその場で立っていた。一瞬太陽の光を陰らせた高い雲が退いて、再びその光がこの部屋を満たした。

「お前、お前お前、東京都民ではないのか!何者だ、お前は東京特区シブヤ共同体が首長ヒカリエ=シブヤだ。そして今は私が配下の東京都民、そうだろう?」

私は前へ一歩進みむしろ男との距離を一層近づけた。男は怯まなかったが、出来る限りの力で睨みつけてやった。それが私のこの十五年間への反逆だった。そして私は言うべきことを大声で男へ放った。

「確かに僕はヒカリエ=シブヤだ。だが違うな、東京都民でもない、神奈川県民でもない、マチダ共同体の一員だ。僕はもう既にシブヤ一族の首長の座を放棄している」

「姑息な手を……!お前らまだ諦めていないのか、ミサイル一本ぽっちしか持っていないお前らに何が出来る!だがマチダ共同体……そう、ツルカワ=ツインズイストか……」

そう言うと踵を返して奥の扉へ向かい、開け放ってからこう叫んだ。

「おいツインズウェスト博士、あなたも来てくれ。戦友との再びの和解を君も手伝ってくれ」

そしてその場からお前は車の支度をしろと叫ぶので、勿論喜んで、と言い放ち、今までよりやけに軽く感じる鉄扉を開けてその場を去った時、私はこれから進むべき方角がどれほどの光に満ち溢れているだろうと思って彼には見えないように笑って見せた。恐らくこの人生の中で、最も軽やかに。

 

 そして私はただ道案内だけをしろと車の後ろで惨めな体勢で縮こませられ揺さぶられていた。しかしそこから覗き見るナルセ=ツインズウェスト博士が、隣で自ら操縦を行うトチョウに怯え少し震えた様子を見せながらも何かの覚悟をしているのであろうと思わせる不可解な様子は、ただ彼の久方ぶりに見た外の景色への感動などと言う粗末な事由ではなく、彼の息子が予感した事柄の的中だろうと察して、興奮で心臓がどうにかなってしまいそうであった。私にとっては昨日ぶり二回目となった町田の来訪においては、流石に自らの家もあって感慨深そうにしていたナルセの父親であったが、トチョウはそんなことは気にせず彼を掴み引きずるようにずかずかとツルカワの家へ歩いて行った。そこで彼が見せたのは、昔私にもそうしていたような、久しぶりに見る丁寧で落ち着きのある取り繕った男の姿であった。

「お久しぶりです、ツルカワさん」

「ああ、久しぶりですね……トチョウ=シンジュックさん」

さあどうぞ中へ、と言う時に私はツルカワ=ツインズイストと瞬間目配せをした。もしもこの男の懐の深さとナルセの大胆な思い付きがなければ私は恐らく目の前の黒い男に支配をされて一生を終えていたのだろうと思うと気が気ではなかった。そしてナルセ=ツインズウェストもまた、騙していた戦友との再会という普通の人間ならば狂ってしまうような状況下でそわそわと落ち着きのない様子を見せていたが、今はそれを解決する時でないと知ってかじっと黙っていたし、またツルカワ=ツインズイストもそういった雰囲気を察して何も問い詰めることはなく、ただそれによって残留した緊張の空気が漂っていた。それで私は座るように勧められていながらもそこにいる意味もないので、玄関口から彼らが対談を行う広間の廊下部分に立って話を聞きながら待つこととなった。しかしその空気にあてられるのが嫌だと言うのは、全く以って本当の理由ではなかったのだ。それはなぜなら、ここが戦いの終わりの場所では決してないと言うことを、私はこの時既に知っていたからである。

「単刀直入に言おう。マチダには東京都になって欲しいんです。あの時、あの戦争の時、平和な世界のために停戦を呑んでくれたあなたなら分かるはずだ。これから東京都が、一つとなった世界がどれほどの成長を遂げるか、あなただって期待しているはずだ、私には出来るんです。ほら、あなたの戦友も平和のために私に力を貸してくれたんだ!どうか、わかってほしい!」

「それで……ご用件はなんでしたっけか」

まるで呆けた老人のように、自分で出して置いたお茶、そしてそれは私たちが来る前から既に机に四つが置かれていたのだが、それを音を立てて啜りながらそう返答した。話の通じない人間を相手取った様でトチョウは痺れを切らし身を乗り出した。

「マチダ共同体に、東京都の一員になって欲しい、それだけです。今ここですぐ、決めるだけなんですよ」

ずっと手に持っていた器を机に置いて小気味良い音が部屋の中を支配してしばらく立ってから、その動作の主だった男は漸く口を開いた。

「はあ……ここまで来ていただいて何ですがね……私には、そのような権限はないのです」

「どういうことです?ここの首長であるあなたが、一体なぜ決められないと仰るのです」

私は招きを断って廊下に一人立っていて良かったと心底思った。何故ならこれから起こる事柄の前で、私が真面目な顔を貫いていられるという保証が全く持ってなかったからである。

「ええ、確かに私はここマチダで百余名の命を預かる首長……でした。昨日まではね」

「何を……」

「昨晩から、ここマチダの首長は代替わりを行い我が娘ツルカワ=ジョルナレミィとなりました。この共同体に関するすべての決定は娘が権限を保有しています」

きっとこの時の今までのそれとは明確に異なるツルカワ=ツインズイストの顔は、恐らくは戦争に立った英雄の時のそれそのものなのだろう、とふと思った。そしてそれを見て形容し難いため息の様な声を漏らしたトチョウは冷静さを取り戻した様で椅子に再び腰掛け直した。

「それで娘さんは、今どちらに」

「旧町田駅です」

「旧町田駅……ミサイルの保管場所……なるほど。誘き寄せるのか、この私を。あの場所で終わらせよう、って言うのか。博士に私の理想を語った、始まりのあの場所で」

トチョウは、私も覚悟を決めなければならないのだな、とぽつりと呟いてから未だ口をつけていなかった茶を腰に手を当て一気に飲み干し、ご馳走様といってすぐさま立ち上がり、私の方を見てまた車を出すぞというので、私はまた再び、勿論です、と言うのであった。そしてこれから行く先がどの様な結末であっても私達の最後の決着をつける場所になるということを、私ヒカリエ=シブヤは少なくとも、昨日の晩この家に居た時から、確信していた。

 

……

 

続く

町田戦記 Ⅲ

 雪深い北方において山の端が紫色になる迄に洞穴を見付けられないことは即ち死であるという教訓が、三日間の死の彷徨の末に私が出した結論であった。このままでは氷漬けになって川を下ることになりかねなかった。最早眼前に至るまで容赦無く私を叩きつける雪の礫を確認出来ないほどに周囲の光量は落ち、数日吹き続ける死の風が仮宿の探索を困難にさせた。岩肌は昨日まで以上に殆どが純白の壁に閉ざされており、南進してなお止まぬ猛吹雪は私にとって絶望そのものであった。グランヴェリ婆さんが故郷を捨てる際に着てきたという草臥れ果てた分厚い外套は確かに防寒には何より優れていたが、時折雪の結晶の侵入を許してしまうので、その度に苛立って身体を震わせていた。もう何度目かのその行為の際に、私は自分が進みながら右へ沈んでいくことが分かった。異常な轟音を立てたあと車は私の意思に関係なく停止しその瞬間強く身体は揺さぶられ、見ると何の役に立っていたかさえ分からない灯具のうち右側のそれが硬い地盤に衝突して粉々に砕け散っていた。全てが終わったように思えた。こういう時のことを万事休す、というのだとヒカリエは言っていた。ここで眠れば死ぬ。そんなことは分かっていた。だがもう、諦めを受け入れる他なかったのだった。

 

 目覚めると私は柔らかい草の上に寝転がっていた。私は川を下るでも渡るでもなくして天国へ辿り着いたらしかった。天国に行けば全てを知れると絵入りの本で読んだことがある。しかし私は私だった。そういえば左頬が熱を感知していた。何があるのだろうと力の入らない首をやっとの事でそちらへ向けると、大きな炎とぐつぐつ音を立てる黒い見たこともない形状の鉄容器が置かれていた。それで私は地獄の方へ落ちたのだと合点がいった。しばらく揺れる火をぼんやり眺めて裁きを待っていると、老人が姿を現した。地獄の番人がやってきたのだ。それで、どうして私は地獄へ来たのですか、と尋ねると、老人は一瞬疑問を顔に浮かべた後で、げらげらと嗄れた笑い声を出してからこう言った。

「あんたは死んどらん。生きとる」

私はあまりのことに驚いて飛び起きた。なぜあの状態で生きているのか。そもそもここはどこなのか。

「ここは俺の家。あんたはどこから来た?オーマガリか?それとも、キタカミか?」

「いえ、私はマチダから……」

まだあまり動かない口でようやく自分の故郷を言うと、老人は曲がりきった腰を直立させ唾を飛ばしながら町田、と叫んだ。

「はい、そうです。ここから南の方にある」

「そんなことは知っとる。あんな遠くから、一体何の用があってこんな北まで?」

そこから先は、今までいくつもの場所にそうしてきたように、自動食料生産施設を回って「神奈川県」を作り、生活自助と衰退回避のために連帯を促しているのだ、北はもうすべて連帯が終わってこれから帰るのだ、という説明をした。

「自動食料生産施設、なあ……」

老人は浮かない顔をした。

「そういえばここは、どこの生産施設に属しているのですか?オーマガリ共同体からはずいぶん離れているように思いますが」

「どこにも属しとらん。儂はここで、自分の食いもんを育てとる」

「自分で、植物を?灰色のやつですか」

「違う。米だ」

「米……」

「ああ、お前みたいのは知らんだろうが、米は真っ白なんだ。自動食料なんぞとは訳が違う。ほら炊けたぞ。これが米だ。早く食え」

俺はお前の命の恩人だなあ、とまたも大きな声で笑うので、確かにその通りだと思い感謝を告げた。つまりこの老人は車で凍えていた私をなんらかの理由で発見して自宅に保護し、自分で育てた植物を有り難く私に分け与えてくれていたらしかった。初めて食う純白の粒に含まれたほのかな甘さに老人の優しさを感じた。 私がずっと食べていて手持ち無沙汰だったのか、老人は語りを始めた。

「俺も若い頃は鄙びた年寄りのことを理解できんかった。なんであの連中はあんなに頑固なのか分からんかった。でもなあ、家の仕事の農業継いで米作り出してから愛着、みてえのが湧いてきてよ。」

今まで俺以外に俺みたいのはいたか、と聞かれたので首を横に振った。知らないだけで工場から離れた場所にこういう暮らしをしている人間は他にもいたのかもしれないが、見たことはなかった。ツルカワの創造の過程を考えるとこれが想像を絶する暮らしであることには違いなかった。

「やっぱりそうか……」

老人は項垂れ、落ち着いた声で語り始めた。

「俺は最初ああいう工場が出来るとき反対したんだ。そんな味のしねえもん食って何が美味いんだ、米でいいだろ、って。だが現実にはこの有様だ。もう誰も米なんて作りやしねえし食いもしねえ。虚しいな。それから一人で暮らして時々思うのさ。ハナっから反対するよか、一緒に生きてこう、たまにでいいから米も食ってくれ、って言えば、もっとマシな結果だったかもしれねえ、ってな。なあ知ってるか。自動食料の前日本の人間はそういう米ばっか食ってたんたぜ。日本で最後の米農家っていえば聞こえはいいけどよお、終わらせちまったのも俺ってなると、苦しいもんがある」

後悔してんだ、と私にでなく空中に浮かべるような声を放った老人は、漸く年相応の雰囲気を醸し出していた。その背の曲線は単なる老化でなく、長年孤独に背負った重荷のせいのように思えていた。

「若造。残り幾許も無いジジイから、頼みがある」

老人は乱暴に何かを手元から滑らせるように投げた。私への美しい放物線を描き宙を待った大きな袋を掴む。それは見かけの割にずしりと重たかった。

「そいつを育てろ。多分関東でも育たないこたあないだろう。作り方は中の紙に書いてある。俺の家で最後の紙だ。もう誰にも教えられん」

よく見ると袋には立派な文字で黒々と秋田小町、と書かれていた。それが何を意味するのかは分からないが、老人が全身全霊を注いだということが何故だかよく伝わってきた。これは彼の誇りなのだ。

「俺は渡したからな。俺は未来を変えたからな。次はお前が変えろ。世界をお前が取り戻すんだ」

そん時こそ俺が天国で見ててやる、という笑えない冗談に口元だけ笑みを作って目を逸らすと、鉄格子の隙間から光が漏れ出ていた。朝日だった。

 

  私を平気で殺しにかかった雪は翌朝になると人懐っこい白色のふわふわとした物体となって、柔らかな光線の中に輝いていた。老人が米を育てている場所へ半分落ちた私の車も積雪がひどく最初鉄の色すら分からなかったが、二十世紀生まれとは思えぬ腕力で老人は瞬く間にそれを退けてみせた。燃料に腹いせと言わんばかりに私達は雪を詰め込むと、車は何とか動き始めた。

「もう帰るんか」

「ええ、帰ります」

「俺は一人で生きるのが気楽だ、俺にはこの生き方が合っとるって思っとったがよ、偶には人と話すってのも気分のいいもんだな」

にかっと隙間のある歯並びを私に見せてから、老人に深々と頭を下げた私は車を発進させた。私が最初の角を曲がるまで、どれほど小さく見えようとも老人は深い皺の刻まれていた腕を強く私へ向けていた。いつかまた来いよ、と大声で叫ぶ老人を、私は自分と運命と未来とが怖くて、直視できなかった。

 

 漸く雪国と呼ばれた地域を抜け、神奈川中央の軍事車は快走出来るに至った。こんな大自然に閉ざされた世界の数少ない人間まで神奈川県民にする必要があるのかと問うとヒカリエは残さずやるんだと強く私を説得してきたのを思い出した。そのヒカリエとは、西を目指す時とは違い北を目指す今回は別行動に至った。北側は北陸を放棄して北上した人々が移住した過去を鑑みても極端に人と施設が少なく、その旅は困難を極めるので西に行ってからの方が良い、と。しかしもうひとつ北にある困難は、西側の二つとは比べ物にならない戦争を継続しているサイタマにあった。広範に及ぶ戦場に対しヒカリエはそのどこにミサイルを撃つのが効率的かの調査にあたっていた。一人寂しく最果てを巡って思ったことには、深く沈んだ場所に位置する絶望との出会いについてだった。より正直に言えば、私はこの世界を救えるという自信を喪いかけていた。一年のうち半分は雪害に頭を抱え、アオモリもアキタもモリオカも、私の出会ったそのすべての共同体は、あの老人と生き方は違う老人がこれから来るすべての終わりを受け入れながら生きていた。今はまだ子供もいるマチダのような共同体も、何をしたっていつかはああなってしまう。私は父親の希望が十五年後の今、時既に遅しではなかったのかという解決しない課題に頭を悩ませ、その日のうちに日が暮れてからも町田へ急いで帰ろうと南を目指した。私が車を走らせるのに手頃な黒色の道が砂埃舞う砂利道の変わり目に差し掛かった時、目の前にはあの、初めて町田駅を見た時と同じような強烈な感覚を骨髄まで流し込む世界が広がっていた。そこにはあの螺旋の背後に聳え立つ二つの塔を凌駕する高さまで育った巨大建造物が何百と地上から生えていた。私はそれらすべてがもう既に人間の住むところでないことを瞬時に解し、失われた時代にやるせのない怒りをまたしても抱えることとなった。

「ふざけるな、ふざけるな!」

あの老人にはもっと全うな最期があったはずである。

「ふざけるな、ふざけるな!」

私やヒカリエのような人間には、もっと素晴らしい未来があったはずである。

「ふざけるな!」

私にはもう、何が出来るのか、この先に何があるのか、わからなくなっていた。意味がないと分かっていても操縦用の輪を握りしめた拳で強く叩きつけた後で、進むべき道の前に人が一人立ちふさがっているのが見えた。慌てて左側の板切れを踏みしめてすんでのところで事なきを得たが私の動悸はおかしくなりそうで、一方で轢かれかけてなお元いた場所から動かぬ三十代半ばほどに見える男は平然としていて、ひとつ文句でもいってやろうと思った途端彼は静かに口を開いた。

「こんばんは。随分とお疲れのようだね。今日はもう遅い。私の家で休んでいったらどうだい?ナルセ=モディルミネ」

「なぜ俺の名前を?あんたは誰だ」

「申し訳ない。自分の名前を名乗るのが先だ、というありふれたあたりまえのルールですら、この世界では忘れてしまいそうになるよ」

非常に落ち着いた礼儀正しい口ぶりで、ぴんと伸びた背筋に似合うヒカリエと似た服の男は、今となってはよく知っている名を口にした。

「私の名前はトチョウ=シンジュック。東京特区の現首長だ。君のことはヒカリエからよく聞いているよ、ナルセ君」

 

 招かれたトチョウの家には見たこともない遺物が大量に陳列されていた。私はそこで本でしか知らないお茶というもののなんとも甘美な味わいに初めて触れ、ツルカワの父が送ってきた果物や、父親の持っていたような膨大な蔵書を目にして、壊れかけの楽園へ誘われたような束の間の高揚を得てから、外の真っ暗闇が映されるガラス窓によって我に帰りトチョウへ質問をぶつけることにした。

「トチョウさん。あなたはどうしてこんな昔のような暮らしを?」

「良いだろう?君だってこんな世界が自分の元にあれば、と一瞬だって考えたことがなかった、とは言わせない」

私はあまりの正論に口を噤んだ。

「映画を見ようじゃないか。君はまだ映画は見たことがないだろう。人生で一番好きな映画と人生に一番与えたい映画はまた違うものだと思う。しかし一本だけを選ぶなら、月並みな選択だがこれでも観ようか」

極めて丁寧に一列に並べられた薄い長方形の中から、彼は迷うことなくひとつ、男が滝のような雨に打たれる絵が描かれていたものを私に見せた。彼は銀色の何かにそれを押し入れてから私の隣に腰掛けるべく引き返してくると、その間に彼は何もしていないのに、私の目の前に別の世界が映し出された。私は必死に手を伸ばしてそれに触れようと試みるもそこには何もなくその先の空間に勢い余った腕が飛び出すだけで、しかし虚構の世界というにはそれは余りにリアルなものであった。

「驚いたかい。これが映画さ。この機械を古い知り合いが直してくれてね。恐らく映画を観れるのは人類で私が最後だろう。映画を通して私達は知らない世界へ行ける。知らない他人の物語を知れる。これは希望の物語なんだよ。だが君が空気を掴んだように、私達はそれには触れられない。少なくとも今はね」

「私達の未来では、それに触れられるとでも」

「ずいぶん及び腰だな。君にだって本を書くという未来の夢があるだろう」

「ヒカリエはおしゃべりだな」

一瞬彼は合点がいかなかったような顔をしていたが、すぐに私に黒々とした目を向けてこういった。

「そうだヒカリエ、あの子はかわいそうな子なんだ。君と同じで父親を幼くしてなくしてな。ましてや戦争で追われる身となって……」

本当にかわいそうで、と何度も繰り返すトチョウに、私は以前ヒカリエから聞いたこの人間の過去を思い出していた。

「失礼なことかもしれませんが、あなたもお父さんを亡くされていますよね」

「そうだな。二つ前の戦争で、私は君達と同じように父であるトチョウ=マルノーチを失った。だが君達とは決定的に異なる点がある。父は私が殺したようなものだからだ」

彼は私に差し出したのと同じ茶に口をつけてため息をついてしばらくしてからこう続けた。

「第三次大戦の折ウイルス兵器がばら撒かれた。まだ私は五歳かそこらだった。徴兵され戦地に赴く父に、無邪気に私は様々なものをおもちゃ代わりのプレゼントにねだった。父は何でも私にくれた。その中には……」

 言い淀む彼を見て全てを察し、私は言わなくても大丈夫です、と言った。

「国語の教科書みたいな話だろう。だが今でも父は私が殺したという心の禍根は癒えない。だから私は、ヒカリエや君のような子には優しくしたいと思っている」

 押し黙っていると、彼は少し作り笑顔を見せた。よく見ると、見かけよりその口角には皺が寄っていて、今までの苦労が推し測られた。

「こんな話をして悪かったね。お茶をもういっぱい飲むかい」

 私がお代わりを要求すると彼は水道へ向かい、棚の前に立ちながらやや離れた私に聴こえるよう少し大きな声を出して私に一つの問いを投げかけた。

「そういえば、ツルカワ=ツインズイストは元気かね」

「なぜツルカワの父を知っているのです?」

「知っているのはたとえ東京派であってもあの戦争にいたなら誰でも知っているだろう。まあ片足の英雄もそうだが」

「じゃあ質問を変えます。なぜあの人の容体を気にするのです? まあ、頗る元気ですが」

「それはよかった。それで、なぜ私が気にするか、か。町田内戦で参戦した時、私は指揮官でありながら既に人を撃てなくなっていた。私のような子供が生まれるのが怖かったからだ。そしてヒカリエの両親が殺された。この時私はようやく目覚めたんだ。こんな戦争なんて終わらせた方がいいと。決意が遅すぎた、そんなことは分かっていたがそれでも私は、味方に殺される覚悟ではじめて停戦を呼びかけたんだ。その呼びかけに神奈川側で応じてくれたのがツルカワ=ツインズイストだった。奇しくもその時君のお父さんが姿を消してね。一日でも早くこの戦争を終わらせたい、そう言う彼がいてくれたおかげで停戦合意は上手く進んだよ。むしろ彼がいなくては進まなかった話だといってもいい。だからめっきり顔を見なくなった今でも彼とだけは時々やり取りがあるのさ、たとえば、あれとか」

彼の指差す先には、更に盛り付けられた果物があった。最初に抱いた感想は誤りで、同じようなものがあるのではなく、実は同じものだったのだ。それから観た映画の内容はよく覚えていない。そして私は一つ考えたくない最悪の可能性について考え始めていた。常識と秩序がそれをやめろといっても、私は言うことを聞かなくなっていた。

 

 北方から帰還してまもない疲れと邪悪な可能性が齎す偏頭痛によって久々の自宅の寝台での朝は最悪の目覚めであったが、ヒカリエもサイタマ側の調査を終え帰還していたので、町田駅に行かねばならなかった。ツルカワとも久々に会い、私たちはまた母なる川をふたりで下った。彼女の今年の備蓄作りの顛末など些細な話をするなかで、いつ言うべきか迷っていた言葉を、結局一時間ほど歩いてから震える唇で発した。

「なあ、ツルカワの父さんは、一体何者なんだ?」

「私のお父さん?」

「戦争中に敵と和平を結ぼうと画策して、それを成功させて、今でも貴重な遺物を貰ってるなんて、変じゃないか」

ミサイルの計画の破綻とその処遇からして停戦を呼びかけるのであれば、あるいは停戦合意の場においては、ツルカワの父親よりはるかに実効的な人物がいたはずである。それを何故、ツルカワ=ツインズイストがいなければ、という仮定までしなくてはならないのか。

「ナルセは、私のお父さんがナルセのお父さんを殺したかも、って思ってる? 」

「いや何もそんなことは言ってないだろ」

「でも疑わなかったことがないわけじゃないでしょ」

「ごめん、まあ少しは」

 「私も娘だからお父さんがそんなことするわけないと思ってる。ただそれでもナルセの話を聞いたら、お父さんはおかしいと思う。どうして今でもお父さんにだけ?どうしてナルセのお父さんが死んだタイミングで和平を?そう考えれば、変な疑いを持たれてもおかしくないと思う」

「一日でも早く戦争を終わらせたいというのなら、神奈川化ミサイルの承認と量産を進めようとした父さんはどうみたって邪魔だ。そんな戦局を覆す兵器を上官が知れば和平なんて旨味のない話は受け入れないだろう」 

「でもそれは答えでもないと思うな。一緒にナルセのお父さんに和平を受け入れようってまず言ったと思う。万が一そこで喧嘩とかして、殺したのがお父さんだとしたら、ヒカリエさんが殺したと言ったのもお父さん以外考えられない。ヒカリエさんが逃げ回させられたのは、きっと神奈川派の人達がヒカリエさんを殺そうとしてるのを知った仲間の人の配慮だと思うんだよね。じゃあどうして無名の少年兵だったヒカリエさんの名前をあげたのかな」

「実は……俺はもう一人怪しんでたんだ。誰か分かるだろ? その話を少し変えれば、トチョウさんが殺したのでも辻褄が合うんだ。だとして、自分が引き取った息子に濡れ衣を着せるかなと思うと、わからなくなってきた」

「もう一周回ってヒカリエさんが大嘘つきだったんじゃないかな」

思わず大きな声でそんなわけないだろ、と言ってしまって、吃驚した表情のツルカワを見て私は口を噤んだ。

「一緒に遠くまで行ったからって、ナルセはあの人に肩入れしすぎじゃないかな」

「じゃあツルカワはヒカリエが犯人って思ってるの?」

お互いに意地悪なことを言ってしまった後で、ツルカワはうーん、と考え込んで黙ってしまった。結局、私達は答えに辿り着く前に目的地へと辿り着いてしまった。こんな不安と疑念をよそに今日も螺旋は青空を吸った色で太陽光を反射しながらくるくると廻り続けていた。

「私達は答えにたどり着けないんじゃないかな。多分、ずっと」

「どういうこと?」

「問題に正しい答えが出せるのは、問題も正しい時だけだよ。私達は何かもっと前に間違えてる気がするんだ。なんとなくだけど」

そう言って曖昧に話を打ち切ったツルカワに対してどのような話をしていいかもわからず、渡そうと思っていたコメの種もポケットの奥底に忘れたままでぼうっとヒカリエがやってくるのを待っていた。

 

「お帰り。北方の調査ご苦労様だった。収穫は十分だったね」

「そういうヒカリエの方は、サイタマはどうだったんだ?」

「ああ、どこにミサイルを撃てばいいかは分かったよ」

「変な口ぶりですね」

「正直に言って、僕はだいぶ衝撃を受けている。気が気じゃないんだ。まずサイタマが大規模な内戦状態にあるのは、こないだ話したよね?」

「ええ、ミサイル一発で上手く行かないほどの広範囲に及んで、確かレッズとアルディージャという武装組織が未だに戦争を続けていると」

「彼らと直接話す機会を運良く得たんだ。すると彼らはある条件を満たせばすぐに停戦して神奈川に属してもいい、逆にその条件が飲めず二つに強制的に合併するなら、神奈川と戦うことすら考える、と言ってきた。まあ一度神奈川県になったらそんな戦争起こりえないから、ミサイルを撃てばいいと思うが」

「いや、とりあえず撃つのはやめよう。そこにはそこにしかない事情があると思う。そこの人の生き方は尊重しなくちゃいけない、そんな気がする」

「何かあったのかい?」

私の脳裏には一人の老人の笑顔と悲哀とがいっぺんに浮かんだ。

「いいや、なんでも。ところで、その条件って? 」

「町田内戦以前は統一されていたサイタマの精神的支柱、サンシャイン=イケブクロの開放だ」

「開放?どこかに閉じ込められているんですか?」

「トチョウ=シンジュックだ」

ヒカリエは養父の信じられない真実の顔に震えながら、私達にゆっくりとこう告げた。

「トチョウ=シンジュックの家に、サンシャイン=イケブクロは幽閉されている」

 

 ヒカリエは今まで見せたことのない焦燥を見せていた。この世界には最早法もなく罪もないが、私達には共同体で人間として生きる以上掟も倫理もあった。自らの父が自らの与り知らぬところで自らの倫理を踏み躙っていたともあれば、それは無理もない反応であった。少しばかりの支度の時間を取ったシンジュク共同体への私達三人の旅立ちの間に、心に決めていたある提案をした。

「そうだ、二人とも、ミサイルを一発使用していいか?もうどうせ撃つにしても埼玉だけなんだ、一発は余るだろう」

「君がそういうなら僕達が止めることはないよ、そうだろうツルカワ?」

「ええ、ここに私が入れた以上は何も言えません」

「認証 利用者:ナルセ=モディルミネ ユーザ登録が認証されました 手動での利用を確認しました 指定地点 確認 データベース照合:旧秋田県 対象区域にMKBMを投下します よろしいですか?」

「旧秋田県?こんな山奥、誰一人住んでない、いや、もう住めるわけないだろう。余るにしても無駄撃ちはやめろよ」

「いいや、これは無駄撃ちなんかじゃない。俺達の希望さ。俺達だけは、忘れてちゃあいけないんだ」

 

 かつて人類が共に生きていたという森という生命の共同体について詳しく知るところではないが、この東京特区旧シンジュク共同体の打ち棄てられた高層建造物群を見ると私は何故かその森という見たことのないものの存在を思い起こすのであった。灰色と茶色と黄土色ばかりが地表を占めるこの世界において緑という色がかつての人類にどれほどの幸福を与えていたのかは、どれほど想像力豊かな過去の人間であっても私達の実感ほどにそれを知ることはなかったと思う。自らを活かした森という存在を殺し、また自らが生きるための住居を破棄し、我々人類は辿るべき不幸をまるで誰かが予め決めた順路に丁寧に従うことで享受しているかのような得も言われぬおぞましさを、崩落、倒潰、瓦解もした建物が、あるいは既に死んでいって大地に還った木々の亡骸が、お前も宿命をお前の責任で受け入れろという声を以て発しているかのような感覚に囚われた。そして私達が見たこともない視点で世界を見下ろせる四十五階にある部屋をノックした時、また別の、いや本質的には同じかも知れない恐ろしさの所在を私は確信していた。

「ヒカリエ、久しぶりだね。ナルセ君は、二日ぶりかな。ええと、そちらのお嬢さんは?」

「ツルカワ=ジョルナレミィです」

「ああ、ツインズイストの娘さんか! どうもどうも、私はトチョウ=シンジュック。お父さんにはお世話になりました」

緩やかな微笑みのあとで彼は一瞬にして口角を落として何用かと問うた。だがその顔はもう既に私達の目的を知っているかのような顔だった。

「父さん、サンシャイン=イケブクロって人について知らないか?」

「ああ、知っているよ。その男なら私が閉じ込めている。いや正確に言えば働いてもらっている、といったほうが正しいのかな」

「なんでそんなことを? それでサイタマの人々がどれだけ怒ったと思ってる?」

君は幼かったからまだ知らなかっただろうが、という前置きの後で、トチョウ=シンジュックは語るべき過去を息子に説き始めた。

「東京特区において彼はメトロポリタン一族という有力な家系の出だった。だがサイタマの人々が開放を求めるほどのように、彼は内戦の最中でさえ埼玉との結びつきがあまりにも強かった。それを快く思わなかった東京派も多かったんだよ。結託の結果独立して東京に叛旗を翻すとさえ言われていたほどだ。そして危険分子扱いされ、私が責任を持って彼を閉じ込めることとした」

「なんだろう、納得は出来るけど、理解は出来ない。だけど、いやだから父さん、僕はその人を解放してほしいんだ。分かってほしい、僕の神奈川化の夢のために必要なことなんだ」

「夢、ねえ……」

そう言いながら椅子に深く仰反って暫く考えるようなふりをした後で、今度は私達へ近づくように背を傾けた。いつしかその表情には再び、初めて会った時と同じような頬笑が戻っていた。

「幽閉ももう今となっては意味のないことだ。私が逆恨みされて徒党を組んだサイタマに殺されたりしたらと思うと怖かったが、親愛なる息子ヒカリエに頼まれては仕方があるまい。それに君たちが目指す世界ではきっと戦争は起きない。なら私も信じよう。明日には開放する」

「ありがとう、父さん」

 

 翌朝町田へ、開放されたサンシャイン=イケブクロがサイタマ内戦のリーダーと共に開放の恩を告げるべくやってきた。彼らの笑顔があるいは私の選択によって永遠に失われ、彼らと私のどちらかが自らの過去を後悔する日がやってくることを考えると、無闇にミサイルを撃たなくてよかったと思えた。だがその結果として齎された彼らのこの何気無い心遣いと取り留めないはずだった会話が、私達の世界をまたしても変えてしまうものになるとは、あの曇りの日の朝には誰も想像すらしていなかった。

「君が、ナルセ君かね。ナルセ=ツインズウェストの息子の、ナルセ=モディルミネかね」

とても聞かされていた年齢には思えないほど白く少ない毛髪を見せ痩せこけた頰でもぞもぞと私に語りかけるサンシャイン=イケブクロの言葉を、私は生涯忘れることはなかった。

「ナルセ=ツインズウェストは、トチョウ=シンジュックの、幽閉されし協力者だ」

「何言ってんだ、父さんは死んだんだぞ、十五年前」

「いいか、よく聞け。どんなに信じられなくても、これが真実だ」

見開いた目で震える私を見据えて、確かな声で彼はこう言った。

「ナルセ=ツインズウェストは、生きている」

 

続く