月を旅路の友として

大学生です。旅行記と、140字じゃ収まらないネタと、色々。

見知らぬ人へ

 「安心な僕らは旅に出ようぜ」とイヤホンから音楽が流れて来たとき、下り普通列車が炎天下の熱海駅に三分遅れてやってきた。乗り込んですぐに列車は出発して、それから落ち着かないうちにトンネルに入る。隣駅までの間の大部分を占める、この七キロメートル以上もある丹那トンネルは、東海道の悲願だった。というのも、一九三四年にこの隧道が完成するまで東海道本線は途中の国府津で北に大きく迂回して急勾配を避けねばならなかったが、迂回してなお急峻な鉄路のために補機を連結する手間がかかった。国家の大動脈にこのような支障があってはならない。そういうわけで文字通り山体に風穴を開ける長大トンネルは作られた。蒸気機関車の時代にあってはこのようなトンネルの中では窓を閉めなくてはならなかった。煤が入り込むのを防ぐためである。

 

 開通してから八十年ばかりが過ぎた。何人がこの道を通っただろう。どれほど重要な使命を抱えて、急用に駈られて、この真っ暗な車窓に苛立って通り過ぎたのだろう。あるいは今の僕のように、どれほどの人間が不必要にこの道を通り過ぎたのだろう?車内を見渡す。一人の老人が車両の中程にいた。老人は立ち上がり、気の狂ったように、窓を手当たり次第開け始めた。周囲の窓を開け尽くして元の位置に老人が戻った頃、視界は開けて車掌が函南駅への接近を告げた。それで僕は、そういえばそういう時代なんだよな、と今更思った。

 

 それから東海道を延々下り続けるにあたって、混んでいても間隔を空けるために態々立ってドアにもたれかかっている人は、列車が変わっても一定数いた。だから僕の隣は常に空席だった。それで思い出したのは去年の夏、洞爺湖から帰る二両のディーゼルカーで寝ぼけて終点の東室蘭に着いた時に膝を叩いて起こしてくれた制服姿の人のことだった。顔も思い出せない。というか最早性別も分からない。でも僕の旅は確かに記憶の中に残っているそういう人たちに、常に支えられ続け、彩られ続けてきた。

 

 旅は知らないそして出会うはずのない誰かと出会う行為でもあると思っている。それは道を進んでいけば必ずいくつもの交差点に行き当たりその度に今までは見えていなかった道と交わっていくというようなことだと考えれば分かりやすいだろうか。進めば進むほど色々な道とぶつかっていく。例えば、フェリーで洋上の朝焼けを一緒に見た、遠距離の彼女と会った帰りの一個下の大学生とか。例えば、北海道の冬の雪道を一人で歩いていたら車に乗せてくれた人たちとか。例えば、迷い込んだ山の中で食べたことないぐらい甘い蜜柑をくれた農家の人とか。例えば……。

 

 別にそういうことばかりが旅の目的だと言っている訳ではない。ただ旅に必然に付随するものとしてそういう出会いがあって、大体の場合はその場かぎりであとのことは知らない。今も元気だろうか、と時々思う名前も知らない人がいる。僕はこのコロナとかいうのが出てきてから夏休みに二回ぐらい旅行らしき旅行をした。でも、そういう出会いは一回もなかった。一回もである。誰もが知らない人に疑念を覚え臆病になっている今当然のことである。勿論今そんなことをしていこうとは、全く思わない。

 

 ただ今はゆっくり歩いていくぐらいのスピードで道を進んでいくのも悪くない気がしてきた。今までは見落としてきたものを見ることもできるし、一旦速度を緩めていこう、ということだ。ちょっとマンホールとかじっくり見てみるのも面白いかもしれない。しかしだからといって今までにあったことを忘れ捨てていくというつもりはない。オンラインとかで誤魔化して生き続けていくことには我慢ならないというのはいつだったか書いた。もういつのことか忘れるぐらいこの期間は続いている訳だ。でもいつかこの制限区間が終わったら、この道を途轍もないスピードで駆け抜けて、沢山の出会うはずもなかった名前も知らない人と会って別れていきたい。だから待ってろ、まだ知らない人。

 

 

終わり