月を旅路の友として

大学生です。旅行記と、140字じゃ収まらないネタと、色々。

町田戦記 Ⅳ

  私はもう分からなくなっていた。父を慕いまた父の希望として見出された自分という存在をある意味では証明するという部分があってこの秋から冬にかけての時を駆けてきたつもりであったが、それは父が既に死んでいるという私の中では絶対的たる前提があってこそであって、その前提が失われては私はこの季節の流れの中でどこへも向かわずその場を漂流していて時間の流れに抜かされていってしまったような、はっきりと一言でいえば虚無という様なものが心に錨を下ろしていた。私はノックもせず、目の前の重い鉄の扉を殴りつけるようにして開け放った。両開きのそれが壁に勢いよくぶつかった轟音に驚くこともない様子の男がそこには一人だけ立っていて、しかし湯気の立った茶が客用に二つ分出されていて、私を翻弄するこの何者かへの張り裂けんばかりの苛立ちを今に声にしてみせようと前へ進もうとしたが、落ちついてと極めて小さな声を出して、弱々しくも私を引き止めるに十分なほどの力で私の袖を掴んだツルカワの忠言に従うこととして、その場で立ち止まりながらに男と対峙する形となった。それでとりあえず私は彼の発言を待つ事となった。

「ずいぶんと早いお久しぶりだね、ナルセ=モディルミネ」

「ええ、そうですね。それで、父はどこですか?」

まあ入って座りたまえと純白の容器を指し示した彼自身も、私の沸き上がる怒りを察知しているであろうに、来客もない一人の夜とまるで変わらないばかりの寛ぎようを長椅子に腰掛けて見せてきたのであった。

「こうなることは最初から分かっていたさ。だから私も呼んである。出てきたらどうだ?ナルセ=ツインズウェスト博士」

合図をすると私達が入ってきた方角と真反対にある小さな扉が軋んだ音と共に少しずつ開かれて、その先の照明のない暗闇の中に一人の男が姿を現したのが見えた。彼が歩を進めることで、横側の美しく湾曲した大窓から差す暖かな太陽の光線が男の風骨を徐々に露わにした時、私は完全の無意識の中で言葉を発していた。

「父さん……」

 思わず立ち上がった私と向かい合うようにそこにいたのは、私の記憶の中にある父と連続して存在することを決して否定もできない、本当の私の父である人物だった。私が知っているより少しばかり痩せこけどことなく情けない面持ちをしているが、それでもその眼は、私を見るあの眼は、いつまでも変わらず父のものであった。

「大きくなったな、ルミネ……」

近づいてくる父親に対して、再会の喜びと偽りの生死への怒りとがいっぺんにぐしゃぐしゃになって湧いてきて、私にはどのような返事をしていいのかわからなかった。

「父さんは、何をしてる?どうして母さんや俺を置いて、こんな所にいる?」

「申し訳ないと思っている……十五年も父親の職務を放棄したのは……うまく言えないが……今は、こうするのが一番なんだ……」

含みのある俯きの後で、親子の再開は別の男の声によって中断された。ぶ厚い雲が太陽を覆い隠して大部屋は少しばかり明度を落とした。

「博士は人類最後の知識人だ。君はもっと自分の父親の偉大さを知ったほうがいい」

「その、博士、と呼ぶのはやめてもらえませんか」

「普段は否定しない癖に。まあ厳密には博士ではないな。博士を志した、それだけの人間だな」

そういうと、私が、幼かった私が悪戯をしかけて苦しめた時と同じような、噛み潰すまでは行かずとも苦虫を舌の上で転がしたような、そういう決まりの悪い表情を浮かべて、それからまたしてもあの頃と同じような誤魔化しの笑顔を浮かべたのがどことなく腹立たしかった。それで三歳児のそれに近い、人を困らせる揶揄いをするこの大人に少しばかり苛々し尖った声を出すことに決めた。

ハカセ、って何ですか?」

「昔の職業だよ。君達はあのミサイルがどういう原理で動きどういう原理で神奈川県化を出来るか、理解しているかい?」

「いいえ、特に気にしたことは」

「だろうな。普通の人間はそうだ。だが普通じゃない人間もいる。そこにいる人間だとかな。ミサイルを動かすには物理、電機、材料、そういったものに精通している必要がある。大学はもうとっくの昔に解体されていたから、本で学んだんだろう。」

ああその通りだという父の感情の欠片もない発言によって、私は父の部屋にあったいくつかの難解な書類、およそ家に来る誰も、そして私でさえ興味のなかったそれが、父にとっては最も重要な原典であるということを今更ながらに知った。

「だが土地の所有権を強制的に書き換えうる科学など過去にもなかった。そこで次の質問だ。君はミサイルを撃たなかった場所をどうやって神奈川県にした?」

四人で机を囲むことになっても、座りながらにして目の前に座る二人の男を交互に見つめるのを私は決してやめなかった。

「説得です。そこに住む人と話し合って、メリットを提示して、合意してもらって」

「それだよ。そういう人心掌握を錯覚のようにして強制的に行える機械が、あのミサイルの中には含まれている。だから本棚にはきっと心理や洗脳の話の本があるはずだ。」

私は父についてその知っている側面を、何も知らないはずの男に暴かれていくのに少しの恐怖と、それに何もかもを明け渡しているように見える父親への苛立ちとで不愉快になっていた。だがしかし、なぜ父はこうも押し黙っているのだろうか?

「着弾地点から50kmを物理的損害なしにそこに帰属する者を神奈川県とする……だがどういう応用であのミサイルを実現出来るのか私には理解出来なかった。私の部下の誰も考えつかなかった。そこで君のお父さんに手伝ってもらっていたのさ。」

「手伝う、ですって?」

「ああ、恒久的な世界平和の実現という理念で私とツインズウェスト博士は一致していた。だから協力を仰いでいたのさ」

そのひとことだけで、父は理想の父の姿を保ちながらも私が持っていた理想を瓦解させてしまっていた。私に理想を託した過去を捨てて父は新たな理想の担い手と希望を打ち上げようとしていたのだ。それも、もう私が三つであった頃から。

「何をしてるんです?平和を目指して、父さんは、家族を捨て味方を捨てた父さんは、あなたと今何をしているんです」

「私の目指すところは一つ。東京都の復活だ。」

俺は父親に質問したんだ、と言いたくもなったか、やり場のない怒りの発散より馴染みのない言葉への確認が優った。

「東京都?」

「ああ。私やヒカリエが共同管理している東京特区共同体とは別物だが、それのルーツみたいなものだ。東京は昔この広い地球という惑星のどこを見渡しても置き換え難い世界最大の都市だった。」

そういって手元の黒い機械を静かに押すと、またしても初めて訪れた時と同じように別の世界が宙に浮かんで動き始めた。よく見るとそれはここであった。だがそれはここであって今のここではなかった。私が初めてこの廃墟群に足を踏み入れたのと全く同じ角度を映し出したその映像では、どの建物も生きていて、眩いばかりの光を私達の目へ何十年越しに放っているのであった。

「美しいとは思わんかね?千五百万の人々が生き、文化が狂うように咲き乱れる東京という都市は。私はここを作りたいと長らく思っていた。君のお父さんも勿論これに参加してくれた。あの戦争の折、私達は最早敵同士ではなかった。同じ方角を見る仲間だったのさ。でもそんな言い訳通じないだろう?だから少しの間、そう世界が東京になるまでの間、死んだふりをしてもらっていたのさ」

父親に真偽を確かめても、やるせのない首肯だけが帰ってきた。それから立ち上がり映像へ近づいたトチョウは大きな別世界に両手を伸ばしてみせて、もちろんそれに触れることはないのだが、私の方から見るとまるで彼はそれをもうその腕の中に収めたようであった。私はそれを少しだけ、本当に少しだけだが、羨ましいと思った。

「神奈川には一つ性質がある。それは東京になりやすいことだ。転移しやすい、とも言える。神奈川にかつて住んだ人々……神奈川県民は、その帰属が曖昧だった。出身を尋ねられて神奈川ですと答える者は稀で、横浜だ、相模原だ、藤沢だ、小田原だ、もっと細分化された場所への帰属性が強く、それを内包する存在たる神奈川は弱いんだ。まとめる力が、とても弱い。だからすぐ東京になれてしまう。逆に言えば東京は結合力がある。神奈川化ミサイルを作った頃より遥かな物資不足と技術の紛失とで博士の手でも東京化ミサイルという強力な装置は作れなくなったが、その性質に着目して君のお父さんの手で五発のミサイルと併用する形で神奈川県東京化ミサイルだけはなんとか一発だけ作れたんだ。」

「一発だけ、ですか」

「そうだ。今度は一発でいいんだ。塗りつぶして上書きするだけなんだ。これは人類が最後に持つミサイルだ。だから一発だけが必要なんだ。それで東京都は確立される。それ以外は、いらない。」

それから、分かったら君達も残り一発のミサイルをすぐに捨てなさい、と強い口調で言ってきた。相変わらず映像は流れ続けていた。

「どうだろう?見たまえ、この美しさを。欲しいとは思わんかね?この誇りを。さあ、東京都を受け入れてくれないか?これを実現するには人々が必要なんだ。労働が必要なんだ。分かってくれるだろう? 」

私の目に入ってくるヒカリエやトチョウが着ている様な端正な黒服を着た人々が無数に蠢き行き交う街の姿を、そして彼らの見せる希望に満ちた目を、心のどこからともなく欲しいと思ったことに間違いはなかった。父は決して私を見捨てたり五発のミサイルと共に過去のものと扱ったりするのでなく、むしろ事情によってとはいえ私が彼の理想にとっては必要不可欠な存在であったことを理解した。遠回りをしたのであろうが、ミサイルと未来の私の行動に託したことによって、トチョウという理想を掲げる男と巡り合い、新しい世界の創造という平和のその先までを叶えるに至った……だとすればそれをしっかりと私に向かってそう言えばいい、そういう多少の不満は抱えていたが、何を自分が欲しているのかを考えればこの誘いは受け入れるのが最善な様に思えた。

「父さんがそれでいい、って言うなら……」

「いや、今日のところは帰らせてもらいます」

私が出したか細い声を掻き消した隣に座る少女の力強い一言を聞いたその瞬間、その場にいた誰もが彼女に驚嘆の目を向けた。彼女は明らかに場の空気の流れのようなものをわずかな時間のうちに書き換えてしまった。そしてこの時の父の表情を私は確かに見逃さなかった。

「ええ、じゃあ俺もそうしますよ。今日は、一旦」

長い溜息をひとりでついた目の前の男はまあそれでも構わない、としぶしぶ言って私達の退出を許可した。それで今度はゆっくりと鉄の扉をこの手で閉めた時、その先でどのような会話がなされているのか聞こうとも思ったが盗み聞きをするにはあまりに頑丈な鋼鉄がそれを阻んだので私達は他にすることもなくて、だが心に両腕では抱えきれない程の沢山の感情を抱えながら階段を降り始めた。

「間違いない、俺の父さんは、何かを隠している」

今思えば父があんなに喋らないのはおかしかったのだ。それに気づけなかった私もおかしかった。喋ることがなかったのではなく、喋ることができなかったのだ。危なかったね、と何の皮肉も嫌味もなく逝って純真な笑顔を見せるツルカワにまた救われたような気がして、いや恐らく実際のところは本当に救われたのであって、ありがとう、と深々と頭を下げると、いいんだよ、と優しく言うのであった。それで僕らはこの状態をまず報告せねばならない人として、この温かく親切な少女の生みの親、ツルカワ=ツインズイストの元を訪ねることにした。訪れた扉に飾られた環状の飾りはいつの間にか旅に出ているうちに少し様相の違うものとなっていて、おかしな形をした円筒が槍のように玄関の前に、しかも何本も歪に刺さっていた。実のところ私はまたしてもこの家に入るのを怖がっていた。私は、親の仇かもしれないと疑った男にどういう顔で会えばいいのか分からなかった。だがしかし、立ち入った部屋で待っていた、庇の下で不可解な植物への水やりを済ませた男の娘のそれによく似た表情を見たとき、私は自らの罪を告白し全てを打ち明けると決めた。長い今に至るまでの話をし終えた時、その蓄えられた髭が動かした言葉は、まるで先刻の私をなぞるような、たった五文字の感謝の言葉であったので吃驚してしまった。

「どうして、ありがとう、と?」

「ちゃんと全てを言ってくれたこと、君達が誘いに乗らずここに帰ってきてくれたこと、戦友が無事で生きていてくれたこと、その全てさ」 

よく分からなかったが満足そうな表情を浮かべる男に向かい、ここに帰ってこれたのは他の誰のおかげでもなく娘さんの力によってです、と言うと、男は突然に私の父親には見られなかった父親としての表情を娘へ向けていた。

「レミィ、お前はどうして怪しいと思った?」

「一つには、そんなことをしないでも、神奈川県を譲って貰ってそれから東京を作ればいいだけだ、って思ったからかな。何もミサイルまで作る必要はない気がする」

でもそれは神奈川県が不安定な存在だと言う説明で打ち砕けるのでは、と一息ついてから言おうとする前に、まるで見えない何かに対して畳み掛けるように彼女は続けた。ふと見やると父親は目を瞑って黙って娘の考察を聞いていたので私も従った。

「もう一つ。最初から神奈川化ミサイルを持ってるナルセを取り込めば、もっと合理的じゃない?どうして今なんだろう。」

「そうかもしれないけれど…」

「神奈川でなく、東京に強くこだわるわけ。それからまるで横取りするようにしなくちゃいけなかった意図が必ずあると思うんだ。それは自分が何をしているのか途中で露呈したらまずい……それほどのことだとしたら?」

「いや待ってくれ、だとしたら本当に全て終わってから、俺らにばれないように東京化すればよかったんじゃないか?今このタイミングで誘いをかける意味はないだろう?」

「つまり、今じゃなくちゃいけなかったんだよ。本当の最後じゃない、終わりかけの今に、魅力的だって上手く騙さなくちゃいけなかった。後から東京化したってバレたら禍根を残す、問題が起きる、何が起こるか分からないけど、そんなような事を……」

もしもこの場に私達でない別の誰かがいたとしたら、こんな突飛な推察について必ず止めにかかるだろうと思われたが、私とツルカワはそれが恐らくは正解に辿り着いているのだろうという事を、あの瞬間の父の形容しがたい微笑みのような面持に根拠を得て確信していた。そして彼女の父も私達の議論に口を挟むことはしなかった。

「神奈川では出来ず東京で出来る、何か疚しいこと……なんだろう」

「神奈川になくて東京にあるもの、と言った方がいいな」

 

 私はあの扉を叩いた瞬間からの時間を、映画のように一から再生させてみせた。その中でヒントたり得る言葉を私は一時停止して引き出すことができた。

「結合力……」

夢の様な言葉の恐ろしさに一緒に気づいたツルカワは、私が思っていた事そのまんまを閃いてみせた。

「そっか、トチョウさんにとっては自分が東京を作ることこそが重要なんだ。強い力を握れるようにするにはこの形を取ればいい。そうでしょう?あんな理想的すぎる計画はどれもこれも、誰かが強い権力を働かせられる環境で人々を従わせるようにしないと到底達成できないものばかり」

あのようなビル群を蘇生させるのに一体どれ程の人間がどれ程の時間を投げうって得られるものだろう、それもあの男が生きているうちに。それを想像して、私はこの少女が機転を効かせなければ今頃どのような悪夢に加担していたのかと思うと背筋の凍る思いで何も言えなくなっていた。その沈黙の後ではじめて声を出したのは、ずっと黙っていたツルカワの父親であった。

「それで、ツインズウェストは、あいつはどう思っているんだ?」

表向きは、という仮定のような前置きをしてから私は父について語った。

「世界平和のために手を貸して、トチョウのいうことが正しい、そう思っているようでした」

「実際には違うんだろう」

「ええ、もしも彼らの言う事が言葉通りなら、父はもう俺たちと一緒に帰ってくることになんら問題ありませんし、普通ならそうするでしょう。でもそうしなかった。恐らくはトチョウの檻の中でトチョウとは違う未来を信じています。そしてそれが今再び俺達の手に託されたのだということも、分かります」

そこでまだ小さかった時分以来に、ツルカワの父が満面の笑みを私に見せた。

「しかしどうしてトチョウがミサイルのことを知っているんでしょう?同じ設計思想のミサイルを作ろうとしていても、敵軍がミサイルを作っていることなどあの時点でまだ知りようもなかったはず。なのに何故製作者まで暴けたんだ……?」

「考えられるのはただ一つだろう。誰かが情報を漏らした」

「あれのことを知っている人はそんなにいたんですか?」

「存在だけなら噂で、な。負傷後前線を離れたツインズウェストの動向は敵味方問わず取り沙汰されていた。噂のなかに真実が混じることもおかしくはない。だが一つ考えられるのは……神奈川派にもトチョウにも近しい人間がそれを意図的に漏らした、ということだ」

「そんな人間いるのでしょうか……いや、いるな。なるほど。全てが繋がった。」

 

 

 私は別れの挨拶を告げて、その別れがいつまでのものになるのだろうという最悪の可能性への想像を必死の思いで振り払い 、前へ歩くことにした。この道を歩くのがこれで最後になってたまるものか。あの悪党に、想像するだけで身の毛がよだつあの巨悪に、私は未来という可能性をすんなり手渡すわけにはいかないのだ。頭を痛めつける悩みを振り払おうと、またこの決意を一歩ずつ確かなものにしようとしてあげた歩くスピードに、隣を歩くツルカワは何も言わず、ただその眼だけは私と同じ前を見据えて、横をぴったりとつけて歩いていくのであった。私達の間に会話はなく、ただ覚悟だけがあった。そうして辿り着いた螺旋の前で、ヒカリエはただ一人佇んでいた。私たちが来たのを確認してやあと片手をあげる所作まで、まるで自動化されたような極めて不自然で異常な動作をしてみせた。もしかしたら私達も震えたり戸惑ったり、彼から見たらどこかおかしなところはきっとあったのだろうとは思われるが、彼の発言や様子はいつもの彼のように見えてどこか取り繕っているような、そんな様子であった。

「集まった目的はこれからどうするか、だけど……もう答えは決まってるみたいだね」

「ああ、俺達はトチョウの誘いには乗らない」

「そういうと思ってたよ。でも実際のところそうすると僕らはピンチだ。東京都化装置を父さんが握っている以上、強引に断行する可能性もある、というかそうするだろう」

「でもまだ東京都化はされてませんよね?強制的にするなら、もうしていてもいいんじゃ……」

下りきった昇降機からいつもの様に彼はコツコツと音を鳴らして前へ歩み、くるっと振り向いて見せた。

「いや、まだだ。僕達の動向とは別に、一発のミサイルで蹴りを付ける以上世界はすべて神奈川であった方がいい。でもこの世界でまだ最後の仕上げが行われていない」

「まだ神奈川じゃない場所……?」

「東京特区共同体。トチョウの塒だよ。」

「東京特区……ヒカリエがいるからなんとなくもう神奈川のような気がしていたが……盲点だったな、確かにあそこは神奈川じゃない。でもなんで今、このタイミングで?」

「トチョウさん言ってたでしょ、東京特区と東京都は先祖は同じだけど別物だって」

「そうだ。一旦神奈川県にして、ナルセのお父さんの東京都化装置を作動させないと、父さんの望む"東京都"は完成しない。後回しにした理由はおそらく二つ。自分のいるところ以外がすべて神奈川になったところを確認してから最後に自分の手で神奈川にする、それともう一つ。」

「もう一つ?」

私たちに走る緊張の中で純粋な疑問がツルカワの声帯から地下空間へ発された。

「あくまで東京特区はいくつかの共同体がまとまってさらにできた共同体だから、その中の主張であるトチョウの一存では決めきれないんだ。僕らが説得に行ったならいざ知らず、トチョウが突然そんなことを言い出したら他の首長は怪しむはずだ。だがもし自分たち以外はもうすべて神奈川になったという環境があれば……否定する人はいないだろう……」

「それで、決めるのは、いつなんだ?」

「明日だ。明日の太陽が上がりきった時間から行われる」

天井に開いた私達の入り口である丸穴がもう橙色の光線を地下へ差し込ませていることで、事の猶予のなさが急激に私たちを押し潰しにかかった。

「ヒカリエも行くんだよな」

「勿論。メトロポリタン一族の家長が再びイケブクロに戻る事への承認、そしてもう一つは、東京特区の神奈川県化が議題としてもう既に通達されている。おそらく多数決で通るだろうな」

 固唾を呑んだ彼は恐ろしい事実を続けてその口から放って明確にした。

「つまり明日の会議が終わった瞬間からいつでも、トチョウはこの世界を自分のものに出来るという事だ」

「それに俺らが対抗できるのは、これだけ……」

はじめて足を踏み入れた時は五本並列にしてあったミサイルはもう既に最も右側の一つを残すのみとなった。だがこの窮地に陥るに至ってもうあと何本かあればなどという仮定は無意味なものであった。半径五十キロメートルなど何個あっても、トチョウの世界を覆すのは難しいだろうということは誰の目にも明らかであった。

「これをトチョウさんの家に飛ばして神奈川にする、っていうのは?」

「難しいな。東京化をする前にやったら塗り替えればいいだけだ。東京化をされた後でも、もしも一発しか持っていないなんて強気な発言が罠だとしたら、詰みだ。それでも賭けるというのなら、このミサイルは東京化が終わった後に、だな」

「でも東京化をしたら私たちもう都民になるんじゃないかな、そうなったらナルセはこれを撃てるのかな?それこそ危険な賭けだよ」

一方でこの問答に参加していなかった私には引っかかる点があった。トチョウがこれを破棄しろと強い言葉で命じたのは何故か?それはきっと彼の世界においてこれが邪魔だからである。彼は一点でも自らの世界を脅かすような存在を除去しようとしていた、と考えると、この時点で、つまり残り一発になって世界がほぼ全て神奈川になったタイミングでの誘いと東京化の断行いうツルカワの疑問点はもう一点の理由で解決された。私が誘いに乗れば円滑に破棄させることが出来る。その後でどのような思いを私が抱こうが、ある種の王となった者へ無策な私がどのような反抗ができるのかは分からない。それは彼の次の世界での強権を裏付けるとともに、むしろ断った場合には彼がこちらに無駄にミサイルを撃たせたいと思うのではないか、そしてそれを潰しうる策もあるのではないかという考えに至った。そうなると、この一発限りのミサイルはむしろ使わない方が私達には都合が良いものの、そうなってしまっては状況を覆る持ち合わせがないというデッドロック状態に陥った。

 

「最早終わりか……」

諦めのため息も漏れない張り詰めた地下の空気を天井の羽根がかき混ぜ続け、その音がいやに耳に障った。三人が三人、それぞれもがくように打開策を必死になって考えているようだったが、今更私達を明日までに救える光などなく、まるで閉じ込められた扉のないちいさな部屋で出口を探すような、そういうどうしようもなさがこの部屋を漂っていた。

「東京はだめ、でも神奈川でいつづけたら東京になってだめ、一体どうしたら……」

隣で頭を抱えいつになく小さく見えるツルカワのこの悲観から出た言葉がどこかに針で刺して留めたように引っかかった。それはこの無力さに同調するのでも、あるいは諦念を叱咤する気になるでもなく、例えるなら、先程の密室の気にもとめていなかったはめ殺しの硝子窓に微かな罅が入ったような、そういう不可解な気づきのようなものだった。その人間ひとり抜け出せるわけもないその窓がなぜ扉のない部屋に作られているのかを考えた瞬間、私はある至極まっとうなただ一つの事実と透明な壁を己が拳でぶち壊せるような手段とがいっぺんに頭に流し込まれたもので、二人から狂ったのでないかと心配されるほどに、また自分でも口角の引きつりが分かるくらい健やかかつ邪悪な笑顔をしていたのであった。それは偶然でなく、トチョウの部屋で父が見せた表情と同じであるということに私はしばらくしてから気づいた。

「俺はひとつ、あまりに簡単なことをすっかり忘れてた。今の今までな。この世界の食料生産施設を中心とする共同体はすべて神奈川県になったと思っていた……だが実際にはそうじゃない場所がある」

「だから東京特区は明日東京になるんだよ、父さんによって」

「東京特区?俺が言ってるのはそっちじゃない」

ツルカワは親指と人差し指を顎に乗せてうんうん唸った後ではっとした顔を見上げた。合点のいかないヒカリエが痺れを切らして私を問い詰め始めたのは無理のないことであった。

「どういうことだ?早く教えてくれないかナルセ。」

地図は今どこにあるか、と聞くと最初にあった金属製の机の引き出しに綺麗に仕舞われていた。机からそれ初めて私達三人が取り出したあの日の高揚感を今でも覚えている。そしてそれに似たものが、不安定で不純な感情が入り混じりながらも今日のこの瞬間にも私の心にはあった。ヒカリエは折り畳んであった地図を目の前でいっぺんに広げた。埃は舞わず、着地点の机を少し滑ってそれは止まった。

「僕らはこの地図のすべてを神奈川にしただろう」

「確かにその地図に載っている食料生産施設のうち活動が確認されたところにはすべて"行ったことがある"。」

私は広げられた人の上半身ほどもある巨大な旧びた紙の赤い丸の中で一つ、今となっては何処にあるのか手に取るように確りとわかるそこを右手人差指で示してみせた。

「だが俺達は一度も、マチダ共同体首長ツルカワ=ツインズイストに対して、『神奈川県になりませんか』と言ったことがない」

疑うように細めていたヒカリエの目が急に丸くなっていた。人間の目は暗いところである部分が大きくなって僅かな光を入れようとするのだ、と本で読んだことがある。だがもし目の前に絶大な希望があるとすれば人間は、よりそれを取り入れようとして出来る限り見開くのかもしれない、私にはそう思えた。

「マチダは神奈川でもなければ東京でもなくいられるんだ、ただ唯一。これを利用する」

打開策が見出されたことで一瞬歓喜に湧きかけたが、勿論それは完全な解決を意味しないのであって、ややあって私達は一瞬で冷静になった。

「だけど利用するったって、どうやって?」

「簡単だ。都民を利用しようとしているんだろう、トチョウは。だとしたらその命令に東京化のあとで背くやつは、神奈川県民でも東京都民でもないということになる。それが分かったトチョウと父さんは、必ずマチダまでやってくる。マチダを東京にせんがために」

私には一つ信じるところがあった。これまでのトチョウという男の性格、つまり自分は他人をまるで操るようにして自分の理想を楽して得てきた人間がその確証に矛盾点を感じたなら、完成したはずのものに一点の不完全な場所を見つけたのなら、恐らくトチョウという人間はそこを治そうとするはずなのだ。そして恐らく最後の仕上げは己が手でやろうとするだろうということは、最早確信であった。それが最後の東京占領とミサイル除去の双方の目的を持っているとなれば尚更のことである。

「それをやってどうなる?父さんたちをここにおびき寄せて、何が出来る?」

「分からないし……それだけじゃ何にもならない。」

じゃあ、と声を上げようとしたヒカリエを止めて、私は続きを述べた。私には確かに信じるところがあったのだ。

「父さんがそうやすやすとトチョウの手に乗っているとは考えられない。恐らく俺達が考えとして到達した地点は父さんの思考においては通過点に過ぎないと思う。そう考えると父さんが最も望みそうなことは……」

「自分をトチョウさんの権利の及ぶ範囲から引き剥がすこと。」

口を挟んだツルカワの発言に頷いてみせた。

「それが出来ればあとは父さんに任せ……とも言いたいが、一応対策は打っておこう。まあ、あとは俺の言うようにして欲しい。ヒカリエは今から俺たちの家までついてきて欲しい、いいかな」

「ああ、構わないが……」

 

 それから、私達は美しい夕焼けの荒原を駆けて初めてヒカリエ=シブヤという仲間を私達の共同体へ迎え入れるに至った。彼が今どのような住居に住んでいて、どのような生活をしているのか、私の知るところではなかったが、白く薄っぺらい建物はもう彼とは何十と見てきたので物珍しさのようなものはなかっただろう。しかしここは今までのそれらとは違って、確実な意味を持つ場所であった。

「私の家……?」

「ああ、そうだ。俺達はここに用がある」

細く所々修繕した後のある板切れのような鉄階段を昇り扉の前に立つと、私はもう三度めだからという些細な理由だけでなくこの家の扉を開けるのに何の憂もなかったが、ヒカリエはこの家に僕が入って大丈夫なのか、と恐る恐る聞くので、きっと大丈夫と信じさせて扉を叩いた。随分と早い再訪に驚かれて、そしてまた見知らぬ男が一人いることに疑問符を打ち出されたので、私は口の中でずっと言おうと先程から思っていた言葉を滑らかに発音するに至った。

「ええ、こちらはヒカリエ=シブヤです」

ツルカワの父は予想通りかつて宿敵と信じた青年に何も動じることなく、どうぞと我々を部屋に招き入れてソファに座らせた。何もお出し出来ないが、と断る彼に突然の来訪を詫びた。それから自動食料でない、何か別の物を作っている様子が私の家にはない台所から聞こえてきたので余計に罪悪感を感じていると、見かねたのかツルカワ=ツインズイストは直球の質問をぶつけてきた。

「それで、答えを導けたのかい?お父さんの信じるところが分かったのかい?」

「いえ、今からお話しすることと少しばかりのお願い事については、父の信じる未来と結末ではないと思います」

そういって一呼吸置いてから、覚悟を決めて私は堂々と宣言をした。

「私が信じる未来と結末についでです」

 

 長い話が終わってすっかり遅くなったあとで、私はある老婆が未だ帰宅していないのを確認して、ヒカリエに少しばかり付き合って欲しいと言って車を走らせてもらっていた。落日した真っ暗がりの荒野を灯が劈き、吹き荒ぶ夜風が顔面に当たるので精一杯だが、なんとか口を開いて今日中ずっと言おうと思っていたことを夜の帳の中にようやく言い出すことが出来た。

「ヒカリエ、今日の君は変だった。どこがというのではなく、なんとなく、だけど」

風を切り裂く音で聞こえなかったのかと思うほど、長い返答待ちの時間だった。

「僕はもう……よく分からないんだ」

隣に座り操縦をするヒカリエの顔は暗くてよく見えなかった。

「よく分からないって?」

「君が羨ましいんだ。お父さんが生きていたことが分かったろう。なのに僕の実の父親は死んだままで、育ての親は僕にとって今や敵だ。それに君はどこへ向かえばいいのか分かっている。けれど……僕には分からない。」

勿論そんなこと比べちゃいけないって分かってるんだけどね、と付け加えた時に、誤魔化すように笑ったのと、それが本心でないことだけは何となく分かった。車両内部向けのライトはないのかと聞くとしばらく操縦機械のあたりを弄ったあとで本当に弱々しい今にも消えそうな光が少しだけ付いて、それでもやはり隣に座る男の表情はよく分からなかった。

「なあヒカリエ……どうして車の灯具は前ばかり照らすんだろう?これじゃあ隣に座ってる人の顔はまるで見えないだろう」

「必要ないから、かな」

 

「そういうことだと思うんだよ」

「何が? 」

「俺らは前のことだけ考えてればいいんだきっと……今隣に誰がいるか、そこで何をしているか、何を考えているか、そんなことよりも、自分の目の前に何があるか、そしてどこへ向かうか……そういうことを考えてればいいんじゃあないか?」

「面白いな、じゃあさ、後ろについてる赤いのは?」

赤い灯具は今の時代に使わないので気に留めたこともなかった。トチョウの家で見たかつての東京では私達が載っているような車が何台も何十台も列をなして馬鹿みたいに詰まっていて、きっとそういう時に後ろを走る人々に自分の存在を知らせるためにあるものに違いなかったが、最早こんな荒野においてそんなものは意味をなしていなかった。

「今は必要ないのかもな、こんな滅んじまったみたいな世界じゃな」

そう冗談を言った瞬間、車が何か旧時代の遺物か亡骸かを撥ねて少しの間宙を飛び、着地の衝撃があって思わず私達はげらげらと笑ってしまった。その事が、彼と希望に導かれて西の果てを目指した時のことを思い出させた。

「でももし誰かが俺達の後ろを走り始める時が来たら……必要だ」

きっとそうだ。私はどんなに強く白い光線を前へ照射して、たとえそれが半分に砕け散ったとしても、結局は自らがその明かりでずっと切り拓いていくものだと思っていた。しかし現実には私はどんな時もそうであったという訳でなく、父、ツルカワ、ツルカワの父、これから会いに行くグランヴェリ老婆、そしてこの苦悩を抱えるヒカリエと、剰えその苦悩の原因たるトチョウという男にすら時には、進むべき方角を赤い小さな光で示してもらって歩んできたのだ。だから今私に出来ることは、今度は私が前を走ること、それ以外になかった。

「これが終わったらそんなこと気にしないでも生きていけるような、そんな世界を俺が作るって約束する。必ずだ」

ありがとう、と言った時、僅かに目に浮かべた涙いつもの彼の優しい微笑みとがはっきりと分かったのは、目的地である食料生産施設の作業用の光が差し込む場所にまで到着したからであった。

 「着いたよ。帰りは歩いていくのかい?」

ここで待っているよ、と言うヒカリエに、きっと長くなってしまうからと首を横に振って断って、腕を大きく振ってまた会おうと叫んで、それから彼が暗闇の中に完全に消えきったあとで振り向いて、私はしばらく見ていなかった馴染みの建物を目にすることになった。その工場は音を立てずに今日も動いていて私達の生きる術を作り続けていた。中へ入ってみるとグランヴェリ婆さんは滅多に使った試しのない夜間作業用の青白い灯具を天井から吊るしてまだ働いていた。それは恐らく私が何十日もの間この施設での労働をしていなかったからであってその点老婆には申し訳ないと思い、老婆は私の姿を認めると直ぐに貧相なその足で駆け寄ってきたので、私はじきにこの老婆をも救ってやろうと決意を新たにした。だがそれは、少なくとも明日より先の話である。

「あれ、ずいぶん長い間見ないと思ったら、こんな時間に帰ってきて、どうした?」

「なに、最後に一働きを、と思ってね」

 

 それはよく晴れた、乾燥した空気に緊縛された世界の何の変哲もない冬の日の朝であったが、私達はこの日を忘れることはきっと一生涯ない。徹夜明けの朝で私はいつもの、三人でいたいつもの場所で寝ぼけ眼を擦っていた。深夜に起こしてここを開けて欲しいとお願いしたので、ツルカワは机に突っ伏して寝息を立てていた。立ち上がり、天井から朝日を仰いだ。きっとヒカリエは上手くやってくれる。私にはその確信があった。それで今この場所にいるのだった。

 

……

 

 私には確信があった。それで今この場所にいるのだった。今目の前に立つ、かつては私の親であったこの男が今何を目論見、四十五階の窓に映る清々しい晴れの日をどれほど愉しんでいるのか、手に取るように分かった。そして男は振り返りゆっくりと話しかけてきた。

「無事会議も終わったところで。ご苦労様だった。先程ツインズウェスト博士の偉大なる功績、神奈川県東京化ミサイルを放ったよ。着弾地点はこの辺りさ。分かったろう?さっきの揺れだ。もう世界は全て東京都さ。」

そんなことは私は知っていた。そして私がどれほどこの男を知れているかの証明が、これから起こる全てへの自信を齎すこととなった。

「ヒカリエよ、親愛なる我が息子ヒカリエよ、お前は晴れて都民となったのだ。いいだろう?都民は私の思うがままに動き、かつての世界を取り戻すためだけに生き続ける。その先で私たちはどんなに素晴らしい世界を手に入れられるだろう?」

「はい、それは素晴らしいものになります」

私は返事をした。

「長かった、これまで……あの博士を拉致し死を偽装させてから、十五年……決して短い時間とは言えない。だがそれを払う対価として、これからの全く新しい世界は十分だろう」

「はい、それは素晴らしいものになります」

私は返事をした。

「そうだろう、そう思うだろう。そのためにはな、人が必要なんだ。人はもう少ない。だが結集すればそれは力になる。すべての人々を、都民を、ここに住まわせるのだ。そして働かせる。そうして東京は復活する。わかるな?」

「はい、それは素晴らしいものになります」

私は返事をした。

「だからな、息子に二度も足労をと言うのは忍びないのだが、父の頼みだ、また西と北から人を集めてきて欲しいんだ。彼らをここへ連れてきてくれ、いいかな?」

私は返事をしなかった。

「どうした?ヒカリエ。返事が聞こえないぞ」

「断るぜ、父さん」

その瞬間男はようやく年相応の深い皺を眉間に寄せた。

「何……?」

「聞こえなかったのか、断るつってんだよ、"トチョウ=シンジュック"」

私は如何しようも無い腑抜けであった。進むべき道を見失い迷子となって心の中で彷徨っていた私は、しかし昨日の夜のこと、一人誰にも見られず流しきった涙とともに、私は私の弱さ全てを捨ててきたのだ。怒りとともに躙り寄る恰幅良い男に決して動じることもなく私は一歩も引き下がらずその場で立っていた。一瞬太陽の光を陰らせた高い雲が退いて、再びその光がこの部屋を満たした。

「お前、お前お前、東京都民ではないのか!何者だ、お前は東京特区シブヤ共同体が首長ヒカリエ=シブヤだ。そして今は私が配下の東京都民、そうだろう?」

私は前へ一歩進みむしろ男との距離を一層近づけた。男は怯まなかったが、出来る限りの力で睨みつけてやった。それが私のこの十五年間への反逆だった。そして私は言うべきことを大声で男へ放った。

「確かに僕はヒカリエ=シブヤだ。だが違うな、東京都民でもない、神奈川県民でもない、マチダ共同体の一員だ。僕はもう既にシブヤ一族の首長の座を放棄している」

「姑息な手を……!お前らまだ諦めていないのか、ミサイル一本ぽっちしか持っていないお前らに何が出来る!だがマチダ共同体……そう、ツルカワ=ツインズイストか……」

そう言うと踵を返して奥の扉へ向かい、開け放ってからこう叫んだ。

「おいツインズウェスト博士、あなたも来てくれ。戦友との再びの和解を君も手伝ってくれ」

そしてその場からお前は車の支度をしろと叫ぶので、勿論喜んで、と言い放ち、今までよりやけに軽く感じる鉄扉を開けてその場を去った時、私はこれから進むべき方角がどれほどの光に満ち溢れているだろうと思って彼には見えないように笑って見せた。恐らくこの人生の中で、最も軽やかに。

 

 そして私はただ道案内だけをしろと車の後ろで惨めな体勢で縮こませられ揺さぶられていた。しかしそこから覗き見るナルセ=ツインズウェスト博士が、隣で自ら操縦を行うトチョウに怯え少し震えた様子を見せながらも何かの覚悟をしているのであろうと思わせる不可解な様子は、ただ彼の久方ぶりに見た外の景色への感動などと言う粗末な事由ではなく、彼の息子が予感した事柄の的中だろうと察して、興奮で心臓がどうにかなってしまいそうであった。私にとっては昨日ぶり二回目となった町田の来訪においては、流石に自らの家もあって感慨深そうにしていたナルセの父親であったが、トチョウはそんなことは気にせず彼を掴み引きずるようにずかずかとツルカワの家へ歩いて行った。そこで彼が見せたのは、昔私にもそうしていたような、久しぶりに見る丁寧で落ち着きのある取り繕った男の姿であった。

「お久しぶりです、ツルカワさん」

「ああ、久しぶりですね……トチョウ=シンジュックさん」

さあどうぞ中へ、と言う時に私はツルカワ=ツインズイストと瞬間目配せをした。もしもこの男の懐の深さとナルセの大胆な思い付きがなければ私は恐らく目の前の黒い男に支配をされて一生を終えていたのだろうと思うと気が気ではなかった。そしてナルセ=ツインズウェストもまた、騙していた戦友との再会という普通の人間ならば狂ってしまうような状況下でそわそわと落ち着きのない様子を見せていたが、今はそれを解決する時でないと知ってかじっと黙っていたし、またツルカワ=ツインズイストもそういった雰囲気を察して何も問い詰めることはなく、ただそれによって残留した緊張の空気が漂っていた。それで私は座るように勧められていながらもそこにいる意味もないので、玄関口から彼らが対談を行う広間の廊下部分に立って話を聞きながら待つこととなった。しかしその空気にあてられるのが嫌だと言うのは、全く以って本当の理由ではなかったのだ。それはなぜなら、ここが戦いの終わりの場所では決してないと言うことを、私はこの時既に知っていたからである。

「単刀直入に言おう。マチダには東京都になって欲しいんです。あの時、あの戦争の時、平和な世界のために停戦を呑んでくれたあなたなら分かるはずだ。これから東京都が、一つとなった世界がどれほどの成長を遂げるか、あなただって期待しているはずだ、私には出来るんです。ほら、あなたの戦友も平和のために私に力を貸してくれたんだ!どうか、わかってほしい!」

「それで……ご用件はなんでしたっけか」

まるで呆けた老人のように、自分で出して置いたお茶、そしてそれは私たちが来る前から既に机に四つが置かれていたのだが、それを音を立てて啜りながらそう返答した。話の通じない人間を相手取った様でトチョウは痺れを切らし身を乗り出した。

「マチダ共同体に、東京都の一員になって欲しい、それだけです。今ここですぐ、決めるだけなんですよ」

ずっと手に持っていた器を机に置いて小気味良い音が部屋の中を支配してしばらく立ってから、その動作の主だった男は漸く口を開いた。

「はあ……ここまで来ていただいて何ですがね……私には、そのような権限はないのです」

「どういうことです?ここの首長であるあなたが、一体なぜ決められないと仰るのです」

私は招きを断って廊下に一人立っていて良かったと心底思った。何故ならこれから起こる事柄の前で、私が真面目な顔を貫いていられるという保証が全く持ってなかったからである。

「ええ、確かに私はここマチダで百余名の命を預かる首長……でした。昨日まではね」

「何を……」

「昨晩から、ここマチダの首長は代替わりを行い我が娘ツルカワ=ジョルナレミィとなりました。この共同体に関するすべての決定は娘が権限を保有しています」

きっとこの時の今までのそれとは明確に異なるツルカワ=ツインズイストの顔は、恐らくは戦争に立った英雄の時のそれそのものなのだろう、とふと思った。そしてそれを見て形容し難いため息の様な声を漏らしたトチョウは冷静さを取り戻した様で椅子に再び腰掛け直した。

「それで娘さんは、今どちらに」

「旧町田駅です」

「旧町田駅……ミサイルの保管場所……なるほど。誘き寄せるのか、この私を。あの場所で終わらせよう、って言うのか。博士に私の理想を語った、始まりのあの場所で」

トチョウは、私も覚悟を決めなければならないのだな、とぽつりと呟いてから未だ口をつけていなかった茶を腰に手を当て一気に飲み干し、ご馳走様といってすぐさま立ち上がり、私の方を見てまた車を出すぞというので、私はまた再び、勿論です、と言うのであった。そしてこれから行く先がどの様な結末であっても私達の最後の決着をつける場所になるということを、私ヒカリエ=シブヤは少なくとも、昨日の晩この家に居た時から、確信していた。

 

……

 

続く