月を旅路の友として

大学生です。旅行記と、140字じゃ収まらないネタと、色々。

町田戦記 Ⅲ

 雪深い北方において山の端が紫色になる迄に洞穴を見付けられないことは即ち死であるという教訓が、三日間の死の彷徨の末に私が出した結論であった。このままでは氷漬けになって川を下ることになりかねなかった。最早眼前に至るまで容赦無く私を叩きつける雪の礫を確認出来ないほどに周囲の光量は落ち、数日吹き続ける死の風が仮宿の探索を困難にさせた。岩肌は昨日まで以上に殆どが純白の壁に閉ざされており、南進してなお止まぬ猛吹雪は私にとって絶望そのものであった。グランヴェリ婆さんが故郷を捨てる際に着てきたという草臥れ果てた分厚い外套は確かに防寒には何より優れていたが、時折雪の結晶の侵入を許してしまうので、その度に苛立って身体を震わせていた。もう何度目かのその行為の際に、私は自分が進みながら右へ沈んでいくことが分かった。異常な轟音を立てたあと車は私の意思に関係なく停止しその瞬間強く身体は揺さぶられ、見ると何の役に立っていたかさえ分からない灯具のうち右側のそれが硬い地盤に衝突して粉々に砕け散っていた。全てが終わったように思えた。こういう時のことを万事休す、というのだとヒカリエは言っていた。ここで眠れば死ぬ。そんなことは分かっていた。だがもう、諦めを受け入れる他なかったのだった。

 

 目覚めると私は柔らかい草の上に寝転がっていた。私は川を下るでも渡るでもなくして天国へ辿り着いたらしかった。天国に行けば全てを知れると絵入りの本で読んだことがある。しかし私は私だった。そういえば左頬が熱を感知していた。何があるのだろうと力の入らない首をやっとの事でそちらへ向けると、大きな炎とぐつぐつ音を立てる黒い見たこともない形状の鉄容器が置かれていた。それで私は地獄の方へ落ちたのだと合点がいった。しばらく揺れる火をぼんやり眺めて裁きを待っていると、老人が姿を現した。地獄の番人がやってきたのだ。それで、どうして私は地獄へ来たのですか、と尋ねると、老人は一瞬疑問を顔に浮かべた後で、げらげらと嗄れた笑い声を出してからこう言った。

「あんたは死んどらん。生きとる」

私はあまりのことに驚いて飛び起きた。なぜあの状態で生きているのか。そもそもここはどこなのか。

「ここは俺の家。あんたはどこから来た?オーマガリか?それとも、キタカミか?」

「いえ、私はマチダから……」

まだあまり動かない口でようやく自分の故郷を言うと、老人は曲がりきった腰を直立させ唾を飛ばしながら町田、と叫んだ。

「はい、そうです。ここから南の方にある」

「そんなことは知っとる。あんな遠くから、一体何の用があってこんな北まで?」

そこから先は、今までいくつもの場所にそうしてきたように、自動食料生産施設を回って「神奈川県」を作り、生活自助と衰退回避のために連帯を促しているのだ、北はもうすべて連帯が終わってこれから帰るのだ、という説明をした。

「自動食料生産施設、なあ……」

老人は浮かない顔をした。

「そういえばここは、どこの生産施設に属しているのですか?オーマガリ共同体からはずいぶん離れているように思いますが」

「どこにも属しとらん。儂はここで、自分の食いもんを育てとる」

「自分で、植物を?灰色のやつですか」

「違う。米だ」

「米……」

「ああ、お前みたいのは知らんだろうが、米は真っ白なんだ。自動食料なんぞとは訳が違う。ほら炊けたぞ。これが米だ。早く食え」

俺はお前の命の恩人だなあ、とまたも大きな声で笑うので、確かにその通りだと思い感謝を告げた。つまりこの老人は車で凍えていた私をなんらかの理由で発見して自宅に保護し、自分で育てた植物を有り難く私に分け与えてくれていたらしかった。初めて食う純白の粒に含まれたほのかな甘さに老人の優しさを感じた。 私がずっと食べていて手持ち無沙汰だったのか、老人は語りを始めた。

「俺も若い頃は鄙びた年寄りのことを理解できんかった。なんであの連中はあんなに頑固なのか分からんかった。でもなあ、家の仕事の農業継いで米作り出してから愛着、みてえのが湧いてきてよ。」

今まで俺以外に俺みたいのはいたか、と聞かれたので首を横に振った。知らないだけで工場から離れた場所にこういう暮らしをしている人間は他にもいたのかもしれないが、見たことはなかった。ツルカワの創造の過程を考えるとこれが想像を絶する暮らしであることには違いなかった。

「やっぱりそうか……」

老人は項垂れ、落ち着いた声で語り始めた。

「俺は最初ああいう工場が出来るとき反対したんだ。そんな味のしねえもん食って何が美味いんだ、米でいいだろ、って。だが現実にはこの有様だ。もう誰も米なんて作りやしねえし食いもしねえ。虚しいな。それから一人で暮らして時々思うのさ。ハナっから反対するよか、一緒に生きてこう、たまにでいいから米も食ってくれ、って言えば、もっとマシな結果だったかもしれねえ、ってな。なあ知ってるか。自動食料の前日本の人間はそういう米ばっか食ってたんたぜ。日本で最後の米農家っていえば聞こえはいいけどよお、終わらせちまったのも俺ってなると、苦しいもんがある」

後悔してんだ、と私にでなく空中に浮かべるような声を放った老人は、漸く年相応の雰囲気を醸し出していた。その背の曲線は単なる老化でなく、長年孤独に背負った重荷のせいのように思えていた。

「若造。残り幾許も無いジジイから、頼みがある」

老人は乱暴に何かを手元から滑らせるように投げた。私への美しい放物線を描き宙を待った大きな袋を掴む。それは見かけの割にずしりと重たかった。

「そいつを育てろ。多分関東でも育たないこたあないだろう。作り方は中の紙に書いてある。俺の家で最後の紙だ。もう誰にも教えられん」

よく見ると袋には立派な文字で黒々と秋田小町、と書かれていた。それが何を意味するのかは分からないが、老人が全身全霊を注いだということが何故だかよく伝わってきた。これは彼の誇りなのだ。

「俺は渡したからな。俺は未来を変えたからな。次はお前が変えろ。世界をお前が取り戻すんだ」

そん時こそ俺が天国で見ててやる、という笑えない冗談に口元だけ笑みを作って目を逸らすと、鉄格子の隙間から光が漏れ出ていた。朝日だった。

 

  私を平気で殺しにかかった雪は翌朝になると人懐っこい白色のふわふわとした物体となって、柔らかな光線の中に輝いていた。老人が米を育てている場所へ半分落ちた私の車も積雪がひどく最初鉄の色すら分からなかったが、二十世紀生まれとは思えぬ腕力で老人は瞬く間にそれを退けてみせた。燃料に腹いせと言わんばかりに私達は雪を詰め込むと、車は何とか動き始めた。

「もう帰るんか」

「ええ、帰ります」

「俺は一人で生きるのが気楽だ、俺にはこの生き方が合っとるって思っとったがよ、偶には人と話すってのも気分のいいもんだな」

にかっと隙間のある歯並びを私に見せてから、老人に深々と頭を下げた私は車を発進させた。私が最初の角を曲がるまで、どれほど小さく見えようとも老人は深い皺の刻まれていた腕を強く私へ向けていた。いつかまた来いよ、と大声で叫ぶ老人を、私は自分と運命と未来とが怖くて、直視できなかった。

 

 漸く雪国と呼ばれた地域を抜け、神奈川中央の軍事車は快走出来るに至った。こんな大自然に閉ざされた世界の数少ない人間まで神奈川県民にする必要があるのかと問うとヒカリエは残さずやるんだと強く私を説得してきたのを思い出した。そのヒカリエとは、西を目指す時とは違い北を目指す今回は別行動に至った。北側は北陸を放棄して北上した人々が移住した過去を鑑みても極端に人と施設が少なく、その旅は困難を極めるので西に行ってからの方が良い、と。しかしもうひとつ北にある困難は、西側の二つとは比べ物にならない戦争を継続しているサイタマにあった。広範に及ぶ戦場に対しヒカリエはそのどこにミサイルを撃つのが効率的かの調査にあたっていた。一人寂しく最果てを巡って思ったことには、深く沈んだ場所に位置する絶望との出会いについてだった。より正直に言えば、私はこの世界を救えるという自信を喪いかけていた。一年のうち半分は雪害に頭を抱え、アオモリもアキタもモリオカも、私の出会ったそのすべての共同体は、あの老人と生き方は違う老人がこれから来るすべての終わりを受け入れながら生きていた。今はまだ子供もいるマチダのような共同体も、何をしたっていつかはああなってしまう。私は父親の希望が十五年後の今、時既に遅しではなかったのかという解決しない課題に頭を悩ませ、その日のうちに日が暮れてからも町田へ急いで帰ろうと南を目指した。私が車を走らせるのに手頃な黒色の道が砂埃舞う砂利道の変わり目に差し掛かった時、目の前にはあの、初めて町田駅を見た時と同じような強烈な感覚を骨髄まで流し込む世界が広がっていた。そこにはあの螺旋の背後に聳え立つ二つの塔を凌駕する高さまで育った巨大建造物が何百と地上から生えていた。私はそれらすべてがもう既に人間の住むところでないことを瞬時に解し、失われた時代にやるせのない怒りをまたしても抱えることとなった。

「ふざけるな、ふざけるな!」

あの老人にはもっと全うな最期があったはずである。

「ふざけるな、ふざけるな!」

私やヒカリエのような人間には、もっと素晴らしい未来があったはずである。

「ふざけるな!」

私にはもう、何が出来るのか、この先に何があるのか、わからなくなっていた。意味がないと分かっていても操縦用の輪を握りしめた拳で強く叩きつけた後で、進むべき道の前に人が一人立ちふさがっているのが見えた。慌てて左側の板切れを踏みしめてすんでのところで事なきを得たが私の動悸はおかしくなりそうで、一方で轢かれかけてなお元いた場所から動かぬ三十代半ばほどに見える男は平然としていて、ひとつ文句でもいってやろうと思った途端彼は静かに口を開いた。

「こんばんは。随分とお疲れのようだね。今日はもう遅い。私の家で休んでいったらどうだい?ナルセ=モディルミネ」

「なぜ俺の名前を?あんたは誰だ」

「申し訳ない。自分の名前を名乗るのが先だ、というありふれたあたりまえのルールですら、この世界では忘れてしまいそうになるよ」

非常に落ち着いた礼儀正しい口ぶりで、ぴんと伸びた背筋に似合うヒカリエと似た服の男は、今となってはよく知っている名を口にした。

「私の名前はトチョウ=シンジュック。東京特区の現首長だ。君のことはヒカリエからよく聞いているよ、ナルセ君」

 

 招かれたトチョウの家には見たこともない遺物が大量に陳列されていた。私はそこで本でしか知らないお茶というもののなんとも甘美な味わいに初めて触れ、ツルカワの父が送ってきた果物や、父親の持っていたような膨大な蔵書を目にして、壊れかけの楽園へ誘われたような束の間の高揚を得てから、外の真っ暗闇が映されるガラス窓によって我に帰りトチョウへ質問をぶつけることにした。

「トチョウさん。あなたはどうしてこんな昔のような暮らしを?」

「良いだろう?君だってこんな世界が自分の元にあれば、と一瞬だって考えたことがなかった、とは言わせない」

私はあまりの正論に口を噤んだ。

「映画を見ようじゃないか。君はまだ映画は見たことがないだろう。人生で一番好きな映画と人生に一番与えたい映画はまた違うものだと思う。しかし一本だけを選ぶなら、月並みな選択だがこれでも観ようか」

極めて丁寧に一列に並べられた薄い長方形の中から、彼は迷うことなくひとつ、男が滝のような雨に打たれる絵が描かれていたものを私に見せた。彼は銀色の何かにそれを押し入れてから私の隣に腰掛けるべく引き返してくると、その間に彼は何もしていないのに、私の目の前に別の世界が映し出された。私は必死に手を伸ばしてそれに触れようと試みるもそこには何もなくその先の空間に勢い余った腕が飛び出すだけで、しかし虚構の世界というにはそれは余りにリアルなものであった。

「驚いたかい。これが映画さ。この機械を古い知り合いが直してくれてね。恐らく映画を観れるのは人類で私が最後だろう。映画を通して私達は知らない世界へ行ける。知らない他人の物語を知れる。これは希望の物語なんだよ。だが君が空気を掴んだように、私達はそれには触れられない。少なくとも今はね」

「私達の未来では、それに触れられるとでも」

「ずいぶん及び腰だな。君にだって本を書くという未来の夢があるだろう」

「ヒカリエはおしゃべりだな」

一瞬彼は合点がいかなかったような顔をしていたが、すぐに私に黒々とした目を向けてこういった。

「そうだヒカリエ、あの子はかわいそうな子なんだ。君と同じで父親を幼くしてなくしてな。ましてや戦争で追われる身となって……」

本当にかわいそうで、と何度も繰り返すトチョウに、私は以前ヒカリエから聞いたこの人間の過去を思い出していた。

「失礼なことかもしれませんが、あなたもお父さんを亡くされていますよね」

「そうだな。二つ前の戦争で、私は君達と同じように父であるトチョウ=マルノーチを失った。だが君達とは決定的に異なる点がある。父は私が殺したようなものだからだ」

彼は私に差し出したのと同じ茶に口をつけてため息をついてしばらくしてからこう続けた。

「第三次大戦の折ウイルス兵器がばら撒かれた。まだ私は五歳かそこらだった。徴兵され戦地に赴く父に、無邪気に私は様々なものをおもちゃ代わりのプレゼントにねだった。父は何でも私にくれた。その中には……」

 言い淀む彼を見て全てを察し、私は言わなくても大丈夫です、と言った。

「国語の教科書みたいな話だろう。だが今でも父は私が殺したという心の禍根は癒えない。だから私は、ヒカリエや君のような子には優しくしたいと思っている」

 押し黙っていると、彼は少し作り笑顔を見せた。よく見ると、見かけよりその口角には皺が寄っていて、今までの苦労が推し測られた。

「こんな話をして悪かったね。お茶をもういっぱい飲むかい」

 私がお代わりを要求すると彼は水道へ向かい、棚の前に立ちながらやや離れた私に聴こえるよう少し大きな声を出して私に一つの問いを投げかけた。

「そういえば、ツルカワ=ツインズイストは元気かね」

「なぜツルカワの父を知っているのです?」

「知っているのはたとえ東京派であってもあの戦争にいたなら誰でも知っているだろう。まあ片足の英雄もそうだが」

「じゃあ質問を変えます。なぜあの人の容体を気にするのです? まあ、頗る元気ですが」

「それはよかった。それで、なぜ私が気にするか、か。町田内戦で参戦した時、私は指揮官でありながら既に人を撃てなくなっていた。私のような子供が生まれるのが怖かったからだ。そしてヒカリエの両親が殺された。この時私はようやく目覚めたんだ。こんな戦争なんて終わらせた方がいいと。決意が遅すぎた、そんなことは分かっていたがそれでも私は、味方に殺される覚悟ではじめて停戦を呼びかけたんだ。その呼びかけに神奈川側で応じてくれたのがツルカワ=ツインズイストだった。奇しくもその時君のお父さんが姿を消してね。一日でも早くこの戦争を終わらせたい、そう言う彼がいてくれたおかげで停戦合意は上手く進んだよ。むしろ彼がいなくては進まなかった話だといってもいい。だからめっきり顔を見なくなった今でも彼とだけは時々やり取りがあるのさ、たとえば、あれとか」

彼の指差す先には、更に盛り付けられた果物があった。最初に抱いた感想は誤りで、同じようなものがあるのではなく、実は同じものだったのだ。それから観た映画の内容はよく覚えていない。そして私は一つ考えたくない最悪の可能性について考え始めていた。常識と秩序がそれをやめろといっても、私は言うことを聞かなくなっていた。

 

 北方から帰還してまもない疲れと邪悪な可能性が齎す偏頭痛によって久々の自宅の寝台での朝は最悪の目覚めであったが、ヒカリエもサイタマ側の調査を終え帰還していたので、町田駅に行かねばならなかった。ツルカワとも久々に会い、私たちはまた母なる川をふたりで下った。彼女の今年の備蓄作りの顛末など些細な話をするなかで、いつ言うべきか迷っていた言葉を、結局一時間ほど歩いてから震える唇で発した。

「なあ、ツルカワの父さんは、一体何者なんだ?」

「私のお父さん?」

「戦争中に敵と和平を結ぼうと画策して、それを成功させて、今でも貴重な遺物を貰ってるなんて、変じゃないか」

ミサイルの計画の破綻とその処遇からして停戦を呼びかけるのであれば、あるいは停戦合意の場においては、ツルカワの父親よりはるかに実効的な人物がいたはずである。それを何故、ツルカワ=ツインズイストがいなければ、という仮定までしなくてはならないのか。

「ナルセは、私のお父さんがナルセのお父さんを殺したかも、って思ってる? 」

「いや何もそんなことは言ってないだろ」

「でも疑わなかったことがないわけじゃないでしょ」

「ごめん、まあ少しは」

 「私も娘だからお父さんがそんなことするわけないと思ってる。ただそれでもナルセの話を聞いたら、お父さんはおかしいと思う。どうして今でもお父さんにだけ?どうしてナルセのお父さんが死んだタイミングで和平を?そう考えれば、変な疑いを持たれてもおかしくないと思う」

「一日でも早く戦争を終わらせたいというのなら、神奈川化ミサイルの承認と量産を進めようとした父さんはどうみたって邪魔だ。そんな戦局を覆す兵器を上官が知れば和平なんて旨味のない話は受け入れないだろう」 

「でもそれは答えでもないと思うな。一緒にナルセのお父さんに和平を受け入れようってまず言ったと思う。万が一そこで喧嘩とかして、殺したのがお父さんだとしたら、ヒカリエさんが殺したと言ったのもお父さん以外考えられない。ヒカリエさんが逃げ回させられたのは、きっと神奈川派の人達がヒカリエさんを殺そうとしてるのを知った仲間の人の配慮だと思うんだよね。じゃあどうして無名の少年兵だったヒカリエさんの名前をあげたのかな」

「実は……俺はもう一人怪しんでたんだ。誰か分かるだろ? その話を少し変えれば、トチョウさんが殺したのでも辻褄が合うんだ。だとして、自分が引き取った息子に濡れ衣を着せるかなと思うと、わからなくなってきた」

「もう一周回ってヒカリエさんが大嘘つきだったんじゃないかな」

思わず大きな声でそんなわけないだろ、と言ってしまって、吃驚した表情のツルカワを見て私は口を噤んだ。

「一緒に遠くまで行ったからって、ナルセはあの人に肩入れしすぎじゃないかな」

「じゃあツルカワはヒカリエが犯人って思ってるの?」

お互いに意地悪なことを言ってしまった後で、ツルカワはうーん、と考え込んで黙ってしまった。結局、私達は答えに辿り着く前に目的地へと辿り着いてしまった。こんな不安と疑念をよそに今日も螺旋は青空を吸った色で太陽光を反射しながらくるくると廻り続けていた。

「私達は答えにたどり着けないんじゃないかな。多分、ずっと」

「どういうこと?」

「問題に正しい答えが出せるのは、問題も正しい時だけだよ。私達は何かもっと前に間違えてる気がするんだ。なんとなくだけど」

そう言って曖昧に話を打ち切ったツルカワに対してどのような話をしていいかもわからず、渡そうと思っていたコメの種もポケットの奥底に忘れたままでぼうっとヒカリエがやってくるのを待っていた。

 

「お帰り。北方の調査ご苦労様だった。収穫は十分だったね」

「そういうヒカリエの方は、サイタマはどうだったんだ?」

「ああ、どこにミサイルを撃てばいいかは分かったよ」

「変な口ぶりですね」

「正直に言って、僕はだいぶ衝撃を受けている。気が気じゃないんだ。まずサイタマが大規模な内戦状態にあるのは、こないだ話したよね?」

「ええ、ミサイル一発で上手く行かないほどの広範囲に及んで、確かレッズとアルディージャという武装組織が未だに戦争を続けていると」

「彼らと直接話す機会を運良く得たんだ。すると彼らはある条件を満たせばすぐに停戦して神奈川に属してもいい、逆にその条件が飲めず二つに強制的に合併するなら、神奈川と戦うことすら考える、と言ってきた。まあ一度神奈川県になったらそんな戦争起こりえないから、ミサイルを撃てばいいと思うが」

「いや、とりあえず撃つのはやめよう。そこにはそこにしかない事情があると思う。そこの人の生き方は尊重しなくちゃいけない、そんな気がする」

「何かあったのかい?」

私の脳裏には一人の老人の笑顔と悲哀とがいっぺんに浮かんだ。

「いいや、なんでも。ところで、その条件って? 」

「町田内戦以前は統一されていたサイタマの精神的支柱、サンシャイン=イケブクロの開放だ」

「開放?どこかに閉じ込められているんですか?」

「トチョウ=シンジュックだ」

ヒカリエは養父の信じられない真実の顔に震えながら、私達にゆっくりとこう告げた。

「トチョウ=シンジュックの家に、サンシャイン=イケブクロは幽閉されている」

 

 ヒカリエは今まで見せたことのない焦燥を見せていた。この世界には最早法もなく罪もないが、私達には共同体で人間として生きる以上掟も倫理もあった。自らの父が自らの与り知らぬところで自らの倫理を踏み躙っていたともあれば、それは無理もない反応であった。少しばかりの支度の時間を取ったシンジュク共同体への私達三人の旅立ちの間に、心に決めていたある提案をした。

「そうだ、二人とも、ミサイルを一発使用していいか?もうどうせ撃つにしても埼玉だけなんだ、一発は余るだろう」

「君がそういうなら僕達が止めることはないよ、そうだろうツルカワ?」

「ええ、ここに私が入れた以上は何も言えません」

「認証 利用者:ナルセ=モディルミネ ユーザ登録が認証されました 手動での利用を確認しました 指定地点 確認 データベース照合:旧秋田県 対象区域にMKBMを投下します よろしいですか?」

「旧秋田県?こんな山奥、誰一人住んでない、いや、もう住めるわけないだろう。余るにしても無駄撃ちはやめろよ」

「いいや、これは無駄撃ちなんかじゃない。俺達の希望さ。俺達だけは、忘れてちゃあいけないんだ」

 

 かつて人類が共に生きていたという森という生命の共同体について詳しく知るところではないが、この東京特区旧シンジュク共同体の打ち棄てられた高層建造物群を見ると私は何故かその森という見たことのないものの存在を思い起こすのであった。灰色と茶色と黄土色ばかりが地表を占めるこの世界において緑という色がかつての人類にどれほどの幸福を与えていたのかは、どれほど想像力豊かな過去の人間であっても私達の実感ほどにそれを知ることはなかったと思う。自らを活かした森という存在を殺し、また自らが生きるための住居を破棄し、我々人類は辿るべき不幸をまるで誰かが予め決めた順路に丁寧に従うことで享受しているかのような得も言われぬおぞましさを、崩落、倒潰、瓦解もした建物が、あるいは既に死んでいって大地に還った木々の亡骸が、お前も宿命をお前の責任で受け入れろという声を以て発しているかのような感覚に囚われた。そして私達が見たこともない視点で世界を見下ろせる四十五階にある部屋をノックした時、また別の、いや本質的には同じかも知れない恐ろしさの所在を私は確信していた。

「ヒカリエ、久しぶりだね。ナルセ君は、二日ぶりかな。ええと、そちらのお嬢さんは?」

「ツルカワ=ジョルナレミィです」

「ああ、ツインズイストの娘さんか! どうもどうも、私はトチョウ=シンジュック。お父さんにはお世話になりました」

緩やかな微笑みのあとで彼は一瞬にして口角を落として何用かと問うた。だがその顔はもう既に私達の目的を知っているかのような顔だった。

「父さん、サンシャイン=イケブクロって人について知らないか?」

「ああ、知っているよ。その男なら私が閉じ込めている。いや正確に言えば働いてもらっている、といったほうが正しいのかな」

「なんでそんなことを? それでサイタマの人々がどれだけ怒ったと思ってる?」

君は幼かったからまだ知らなかっただろうが、という前置きの後で、トチョウ=シンジュックは語るべき過去を息子に説き始めた。

「東京特区において彼はメトロポリタン一族という有力な家系の出だった。だがサイタマの人々が開放を求めるほどのように、彼は内戦の最中でさえ埼玉との結びつきがあまりにも強かった。それを快く思わなかった東京派も多かったんだよ。結託の結果独立して東京に叛旗を翻すとさえ言われていたほどだ。そして危険分子扱いされ、私が責任を持って彼を閉じ込めることとした」

「なんだろう、納得は出来るけど、理解は出来ない。だけど、いやだから父さん、僕はその人を解放してほしいんだ。分かってほしい、僕の神奈川化の夢のために必要なことなんだ」

「夢、ねえ……」

そう言いながら椅子に深く仰反って暫く考えるようなふりをした後で、今度は私達へ近づくように背を傾けた。いつしかその表情には再び、初めて会った時と同じような頬笑が戻っていた。

「幽閉ももう今となっては意味のないことだ。私が逆恨みされて徒党を組んだサイタマに殺されたりしたらと思うと怖かったが、親愛なる息子ヒカリエに頼まれては仕方があるまい。それに君たちが目指す世界ではきっと戦争は起きない。なら私も信じよう。明日には開放する」

「ありがとう、父さん」

 

 翌朝町田へ、開放されたサンシャイン=イケブクロがサイタマ内戦のリーダーと共に開放の恩を告げるべくやってきた。彼らの笑顔があるいは私の選択によって永遠に失われ、彼らと私のどちらかが自らの過去を後悔する日がやってくることを考えると、無闇にミサイルを撃たなくてよかったと思えた。だがその結果として齎された彼らのこの何気無い心遣いと取り留めないはずだった会話が、私達の世界をまたしても変えてしまうものになるとは、あの曇りの日の朝には誰も想像すらしていなかった。

「君が、ナルセ君かね。ナルセ=ツインズウェストの息子の、ナルセ=モディルミネかね」

とても聞かされていた年齢には思えないほど白く少ない毛髪を見せ痩せこけた頰でもぞもぞと私に語りかけるサンシャイン=イケブクロの言葉を、私は生涯忘れることはなかった。

「ナルセ=ツインズウェストは、トチョウ=シンジュックの、幽閉されし協力者だ」

「何言ってんだ、父さんは死んだんだぞ、十五年前」

「いいか、よく聞け。どんなに信じられなくても、これが真実だ」

見開いた目で震える私を見据えて、確かな声で彼はこう言った。

「ナルセ=ツインズウェストは、生きている」

 

続く