月を旅路の友として

大学生です。旅行記と、140字じゃ収まらないネタと、色々。

有限の正月とマチュピチュについて

 死ぬまでに見たい絶景、という謳い文句が世の中に氾濫している。そのどれもが既知の景色か、初見であったとて綺麗だなという感想のうちに終わるものばかりであり、私の心の針を動かすようなものは殆ど無い。まあ少しは行きたいと思ってリストに留めるはいいが、死ぬまでに、とは大袈裟だ。

 

 ただ唯一の例外はマチュピチュである。行ってみたい見てみたい、という気持ちが自分ではわからないほどに強いのか、あるいは地球の反対という場所性なのか、古代インカの高原の遺跡がテレビで取り上げられる時、それがどのような形であれ、不思議と「死ぬまでに、ここに行けるだろうか」という気持ちが湧き上がり抑えられなくなる。これはもう脳に刷り込まれたもので、廃墟と化した空中都市を見かけると必ず、死ぬまでに……、と考えてしまう。

 

 それと似た思い込みをしてしまっているのが、正月である。年末年始の興奮したようで静まり返った街の雰囲気だとかはどことなく好きなのだが、それを味わっているうちに心のどこかで、人生で後この特別な数日間を過ごせるのは高々六十回、と考えてしまうのをかれこれ数年ぐらい続けている。それは帰省をしなくなったあたりからかもしれない。家で寝転がってテレビばかり見ているとそんなことしか考えつかない訳だ。

 

 どうせ今年も寝正月に終わるくらいであればと、私は旅に出ることにした。行き先はこれから決めよう。雪が見たい。出来れば北の方がいい。遠すぎない方が気楽だろう。そんなことを考えながらグーグルマップを遊覧飛行していると、ある場所が目に留まった。別所温泉。たまには一泊二日圏内で静かに温泉に浸かるだけの旅行も悪く無いなと思い即決したが、数ある温泉の中でもここを選んだのは、恐らく祖母が好きだと言っていたような気がする微かな記憶のせいだと思う。

 

 旅支度を進めていると、当然のように親にどこに行くのかと聞かれる。今日は一月一日だから尚更である。正月早々何処かへ出かける馬鹿息子の行先を尋ねるのは至極真っ当なことだから、素直に別所温泉に行くと伝えた。ほら、お祖母ちゃん好きだったんでしょ、そこ、と言うと、違う、と言われた。

「ずっと行きたかったけど、行けなかったのよ」

そう言われてから、正月の残り回数とマチュピチュ遺跡のことを、新幹線を上田で降りるまでまた考えていた。

 

 思い起こせば、帰省をしなくなって家でお正月に鬱状態になるいわゆるお正鬱を過ごしていたから元日残りカウントをしていたのではなくて、物心ついてから初めて身近な人に次にお正月がやってこない状態を認識したことで考えるようになったのだと気づく。そんなこんなで、残り何回目なのかは分からない二十三回目の私の正月は、上田駅から三十分ほど私鉄に揺られて辿り着いた別所温泉で迎えることとなった。

 

 列車は正月ダイヤで増発していた。一時間に一本が三十分に一本になっていて、その割に列車はちらほらと空席のある程よい混み具合で、大半の(恐らく帰省中の家族連れあるいは地元の人と思しき)客が私と同じ終点で降りた。洋館風の駅舎には正月飾りがちょこんとつき、降り口の階段の先にはしめ飾りがアーチとなっている。雪は既に溶けてなく、よく晴れた気分のいい日だった。

 

 客の流れる方へ私も坂道を登っていく。曲がりくねった道の先が開けると、そこが参道になっていることに気がついた。出店が狭めた道を客が往来している。屋台に混じって無人の御神籤箱があった。破魔矢を持って坂を下る人が目の前でたこ焼きを買った。それで初めてこの街には北向観音という寺院がありここら一帯の人々が初詣に向かっていることを知った。ただそこに有名どころの神社のような喧騒はなく、静かに祝われる尊さがあることは目に見えて分かったので、私は彼らに混じりなるべく目立たぬよう参拝をした。

 

 それからしばらく温泉街を眺め、共同浴場で体を少しばかり硫黄臭くし、長野県最初の国宝と言われる三重塔へ行った。恐らくこれでテンプレート的な別所温泉観光としては一巡しただろうと思われるのだが、結局祖母は嫁いできた母に話すほどに何を見たくてこの場所を求めていたのかは分からずじまいのまま帰路へつく事となった。そして駅への一本道をまた通ろうと北向観音への入り口に立った時、そこにあったのは小さな街の小さな通りの美しさであった。 

 

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 きっと祖母がここで見たかったものは、これではない。もし正月でなければここはただの道だったろうし、もし晴れていなければ美しい山々は姿を見せていなかっただろう。だが、この日この場所に導いてくれたのかもしれない祖母に感謝したい。もしかしたら、大きなスケールの話じゃなくて、こういう取り止めのない何処かの風景ひとつに惹かれていたのかもしれない。そしてそれが叶わなかったのだなあ、と思ってしまう。そうであれば、少しでも行きたいところへは迷わず行くことを私が教訓とすることがせめてものなんとやらではないかとか、そんなことを思いながら駅へと戻った。正月早々、やけに訪れられるかどうかだとか、ネガティブなことを意識することになった。しかし私は死ぬまでにもう一度ここへ来たい。
 

 二両編成の列車が上田へ戻る。既に少しずつ夕暮れ時へと空の色は変わっている。終点へ着いたらどちらへ向かおう。今晩は何処に泊まろう。明日は何に巡り合おう。人生は有限であって、死んでは行けない場所がこの世界には知ってるだけでも山ほどある。最早私にとって毎日が正月であり、全てがマチュピチュとなった。私は今年も、いやこれからも、旅を続けなくてはならない。

何もしてないのに人生が壊れた

  • 廃品回収車に乗りたい

 廃品回収車って最近見かけなくないですか?いやあれは見かけるというよりかは耳で存在を感知するものだと思うんですけど、よく考えてみたらもうここ数年一回も近所に来た覚えがありません。もはや僕の家の周りからは全て廃品という廃品を根こそぎ狩り尽くして廃品不毛地帯にしたから用済みになったのか、エコでリサイクルでサスティナブルな社会が到来したのであれ自体が用済みになったのか、まあ知るところではありませんが、今猛烈にあれに乗りたいんですよ。奥行きの方がでけえブラウン管テレビとか、お前カビのせいで逆空気清浄機になってんだろみたいなきったねえ灰色のエアコンとかと一緒くたに荷台に積まれ、軽トラに揺られてどこまでも行きたいと思うんです。「壊れていても構わない」んでしょ?乗るしかねえだろ。あれはビッグウェーブなんですよ。人生三大乗りたいものランキング:「前の車を追いかけるタクシー」「バカデカいショベルカー」「廃品回収車」。

 乗りたいと思っても廃品回収車が来ないなら乗れないというのは自然な道理なんですけど、マジで一切来ないんですよね。昔あれだけ来てたのに。そう思うと自由に廃品回収車に乗れた時代がすげえ羨ましい。壊れていても構わなかった昔が欲しくて欲しくて仕方ない。でももう無理なんです。壊れちゃったら、ちゃんとよくわかんないところに電話して、コンビニかなんかでお金払って、日曜日に来てもらって、連れ去ってもらうしかないんです。こうやって僕の欲しいものはいつもいつもいつもいつも時代に奪われていきました。あと十年早く生まれていたら?無い物ねだりは悲しいだけだって一番わかってるんですよ。でもそうでしょう、もし仮に十年前に同じ年齢だとしたら、もし仮に五年前を同じ立場で味わえたとしたら、今の自分と比較して楽しかった・気軽だった・自由だった、そんなことは目に見えてるわけです。クソみてえに暑いのにマスクつける必要もねえし、好き勝手誰の目も気にせず世界中ふらふら回っていいし、ツイッターにはまだクソリプも来ないし、ツイッターにはまだクソ引用RTも来ないし、ツイッターにはまだクソ陰湿鍵リツイートも来ないし。

  • さようなら懐古厨

 僕は自他共に認める懐古厨です。まあざっくりここまでの千文字ぐらい読んでたらだいたいわかると思いますし、あるいはツイッターのアカウント覗いてたら時々失われた時を求めたり過ぎ去りし時を求めたりしてるのは知っている事かもしれません。でもそれは比較的緩やかに自分のしたいことが奪われていったりした時に感じる事であって、時代の進みに連動した技術革新とかの恩恵を受ける分とのプラスマイナスゼロかなあって思ってたわけです。ところが2020年がやってきたらこのざまです。壊れかけです。たとえ徳永英明でさえ本当の幸せを教えてもらうことができません。逆に聞きたいんですけど、2019年と比較して今年何か一つでもいいことありましたか?僕はありません。一切。ゼロ。なにこれ?喪中?

  • 復讐は何も生まない[要出典]

 もうむちゃくちゃ腹立ってくるわけですよ。俺なんか悪いことしたか?確かに親に見せるプリントをランドセルの中でくしゃくしゃにちぎれさせて無くしたふりしたり部室でカルピスを密造酒に変えたり今もLINEを十日返してなかったりとかしましたよ、ええ。でもそれで大学生活大凡三年間を奪われなくちゃいけないんですか?お母さん創ろうとしたって左足持ってかれるだけですよ。俺の人生三年やるからって等価交換は一体何となら成り立つんですか?もう懐古とかしてる場合じゃないんです、ただ真っ当に何事もなく大学生活を送れる環境があった全ての過去に対する憎悪がこの三ヶ月で作られました。クッキーババアがクッキー作るのと同じくらいの勢いで「憎悪」家で作ってました。持たざる弱者としての現在から過去へのルサンチマンです。もちろんそんな感情に何の意味もありません。早くそんな負の感情捨てた方が真っ当な人生送る上ではましです。そんな復讐は何も生まない以前に復讐にすらなりません。

  • 最高の人生

 という訳で現代から過去へ向けてのこの憎悪をどう形にしていくか、となった時に答えは一つしか浮かびませんでした。クソほど楽しんでやります。比較したらもちろんこんな時代カスのゴミで終わりかけですよ。でもなんか作ってやりたい。なんかしてやりたい。安全圏にいる過去と未来に一泡吹かせたい。そのためならなんだって、もう一から軽トラ買ってきて自分で廃品回収車にして自分で回収されてきます。もちろんルールも世間体もしっかり守った上でめちゃくちゃやります。程よい制限はスパイスです。よく年重ねて制限がなくなったから楽しい、っていう人いるじゃないですか?バカじゃねーのって思います。んなもんルール破ったら誰でも面白くなれんだよ。全裸で新宿アルタ前に直立不動してたら誰だって面白いだろうが。将来「コロナだったから仕方ないよね」とか「かわいそうな世代だったね」とか、多分絶対言われると思うんですけど、それを何の感情もなくしかも自分はのうのうと何の心配も不安もなしに青年期を生きた人間に言われたら多分死ぬほどムカつくと思うんですよね。で、言ってやるか、まあ言わないにしても心の中で思うか、どっちでもいいからこう言ってやりたい。

「おかげさまで最高の人生です」

 

(人生が)おしまい

山形県でPOSシステムと戦った話

 隣の薬屋には何でも売っている。まあ実際には薬屋じゃなくてどこにでもあるドラッグストアーだし、本当に何でもは売ってないんだけども、便利であることに違いはない。例えば今こうしてソファーベッドに布団を被り寝そべりながらむしゃむしゃと頬張っている韓国のりは、十分前になんとなく食べたくなって五分前にそこで買ってきたものである。昨今の騒ぎで何もかもが自粛する雰囲気にあるのでいくつか楽しみにしていた旅行も中止にしたかさせられるかになったし、不要不急の行為は成る可く控えるべきだそうなので、こうして家で出来る限りの行動を慎んで生きているわけだ。ただし予防には抜かりなく、毎晩必ず喉のアルコール消毒を行っている。5%だったり9%だったりする。

 ……つまるところ、大学一年生の春休みをろくすっぽ家からも出ず人とも会話せず毎晩一人晩酌をしてはあとは寝るだけという、あまりに自堕落な生活を送っているのだ。書いていて全くもって情けない。空しい。しかし外出は控えろという世間だ。全くもって抑圧に等しい。自宅が座敷牢に見えてくる。そういえば前もこんなことがどこかであったなあと、ふた袋目の韓国海苔に手を伸ばし、包装を無造作にビリビリと破いたところで突然記憶がフラッシュバックした。思い返すのも忌々しいことだが、それは大学生もう一つの長期休み、今からちょうど半年前の、夏休みのことだった。

 

 

 空白の一年、浪人とも言うが、高校四年生を送ると言う艱難辛苦の末に大学生になったのは何も僕だけではない。汝を玉としたかどうかはさておき、梅雨時の陰鬱とした雰囲気にも負けずフレッシュな気持ちをまだギリギリなんとか持っていた僕やそのほか友人は、一足早く大学生になっていた同級生たちの夏休みを参考としてどうしてもしなければと心の手帳に書き記し思っていたことがあった。免許合宿である。免許は忙しくならない大学一年のうちに取っておけ、とは元同級生で先輩のありがたい助言である。

 一般常識だとは思うが、普通自動車免許を取得するには付近の教習所に自宅から通う「通い」と、遠隔地の教習所に二週間程度宿泊して取る「合宿」とがある。前者は楽ではあるが、何しろ取得に時間がかかる。知人は二ヶ月か三ヶ月かかっていたし、面倒になって行かなくなって最終的に辞めたやつも知っている。最終学歴:ドライビングスクール中退。その点「合宿」は短期集中で取れるのだから楽なことこの上ない。15日もまとまった日にちが取れるのかと言う問題点は大学一年の長期休みが解決してくれる。気のおけない友人たちと行けば良いし、先の助言をしてくれた友人たちが大部屋を取ってゲームを持ち込み非常に楽しそうにしていたのを見て、浪人していた友達二人と、去年都合で取り損ねた現役二年生一人、しめて四人で行くこととなった。ちなみに申し込みとしては結構遅かったらしく、もう四人で取れるところは二つしかなかった。一つは宮崎で、一つは山形だった。宮崎は遠すぎる。あまりに遠い。それは総意であり、申し込み窓口には山形で、と伝えたのだった。思えばこの時、いやせっかくだから宮崎に行こうと思っていれば、あの戦いは勃発せずに済んだのかもしれない。

 

 米沢は山形南部置賜地方最大の都市にして、江戸の世は上杉氏が治めた歴史深い城下町である。東北自動車道で四時間はかからないし、新幹線は一時間に一本止まるし、福島と山形双方に繋がり、出ようと思えば新潟にも仙台にも出れるような場所である。冬は豪雪地帯として知られるが、夏は涼しいのかというとそうでもなくむしろ暑い。これはかの地が立派な盆地だからである。そういうわけで、昨年夏、僕は米沢駅に半袖シャツ一枚で降り立った。送迎バスがやってきて15分ぐらいで自動車学校に辿り着いた。同じような魂胆の大学生で受付窓口は溢れ返り、まことに煌びやかな髪の色をなされた方々などと一緒くたに大教室に通された。ガイダンスはごく当たり前のことしか聞かれないし、必要事項記入も実に退屈だった。既に原付免許を持っていて違反を取られたことのあるものはいるか、など、そんなやついるわけあるか、と思った途端教官がこちらを見てきて、後ろのやつが手を挙げたことが分かった。本当にいるのかそんなやつ、と思ったが、よく考えたら一つ後ろは同行者だった。教官にクソ呆れられていた。そんな個性あふれる人たちと共にした十六日間の総括としては、二字熟語でいえば地獄である。まあ別に教習所は悪いところではなかった。他の車校に行った人の話を聞けばむしろ待遇は良好だったといえよう。最終的には全員免許も無事取れたし、知る限りでは諍いもなく帰ってこれた。問題なのはただ一つ、宿舎だった。

 ガイダンスの後我々が十六泊する場所が案内された。教習所からほど近く、というか教習所の中にあり、座学や教習の合間にすぐ帰って寝たり自由に時間を潰せるのはいいなと思っていた。そして僕たちは去年の人々の体験を知っているから、そこそこの広間に布団を四枚引いて、テレビにゲーム機を繋げて遊び倒す日々が始まるのだ、風呂だって大きくて綺麗なんだろう、そういうイメージが脳内にこびり付いて剥がれなかった。3分もせず歩くと、中学校の頃林間学校で止まったような施設が目の前に現れて一眼で夢は崩れた。よくわからない鍵を渡されて、二階の一番奥の部屋へ行くように指示される。異変に気付いたのは階段を登り終えた時である。部屋の扉と扉の感覚が明らかにおかしい。少なくとも四人分の布団が並ぶだけの大きさはないし、かと行って外観からして別の軸の方向がそこまで大きかったわけでもない。そして廊下に鎮座する「名前を書くこと」と書かれた冷蔵庫。もう何を意味するかはお分かりだろう?しかし僕は分かりたくもなかった。

 ギチギチに詰められた横幅の狭い二段ベットの、扉に向かって右上が僕の二週間超に渡る定位置となった。冷蔵庫が共用なのは当然部屋が狭いからで、日数分の荷物が入るはずもない駅前のコインロッカー以下の銀色の何かには誰も何も入れようともしなかった。有効スペースはベッドの下とストーブの上と各々のクソ狭いベッド、ただそれだけだった。最悪なのは小さなテレビで、小さいだけならまだよかった。なぜか部屋の壁の異常に上の方にネジで固く取り付けられていたのだ。恐らくは二段ベッドの上段の人が見やすいようにというささやかな配慮なのだろうが、ドライバーを買って取り外してやろうか迷ったほどだ。そんな配慮は要らない。最終的に持ってきたスイッチが宙に浮いて接続される形で解決した。1950年代の街頭テレビさながら、下の段にいるものは僅かなベッドとベッドの間のスペースから上を見上げるようにしてスマブラをすることとなった。首が痛くなったのは言うまでもない。

 淡々と実車教習などは過ぎていく。そのことにはあまり不安などなかった。強いていうならS字・クランクで脱輪しないようにはどうすればいいか、とかは考えたことがあったが、そんなことに脳みそのリソースを使うほどの余裕がなかった。第一の不安は伝染病である。教習が入っている時間以外の全て、つまり一日の二十時間近くはあの監獄みたいな場所で過ごすこととなっていた。僕たちは仮免のことを「仮釈放」とか、卒業のことを「出所」とか呼んだ。異常に固く、背中がバキバキと音を立てて崩れる夢を見るベッドのうち左上にいるやつが最初に体調を崩した。発熱とだるさ、鼻水があった。無事回復したかと思えば次にその真下のやつが具合を悪くした。その次は更に隣の右側下段ので、最後はその上の僕だった。そしてまた隣の左上のやつが悪くした。つまり最悪の衛生状態の中で僕らは風邪をサイクルさせていたのだ。綺麗に円を描くように。そして第二の心配は風呂だった。1日目に風呂を覗きに行ったら、小さな家庭用の風呂には白濁の湖の上をアヒルのソフビが泳いでおり、そこら中髪が浮いていた。以来誰も足を踏み入れようとはしなかった。しかし夏場に風呂に入らないなど言語道断。ましてやここは酷暑の街である。真っ暗な国道を車に怯えながら歩いて三十分のスーパー銭湯に毎日通うこととなった。

 このように最悪の環境に身を置く中で、僕たちは次第に壊れていった。ベッドからコウモリのようにぶら下がったり、なぜか全裸にタオルだけかけてヴィーナスのモノマネをしているやつが部屋にいたり、借金を返さなくなったり、普通に死にかけていたり、隣の部屋に壁ドンしたり、色々である。帰りたくても帰れない、あと何日もあると悲痛な叫びを毎日聞く始末。こんな地獄のような日々のささやかな楽しみは買い出しだった。五分ほど行けば大きめのドラッグストアーがあって、だいたい安くなんでも手に入った。ここでジュースやおやつをスパ銭帰りに寄って選んでいくのだけが生きがいだった。

 ある日僕はそこで無性に韓国海苔が食べたくなった。なんとなく、本当に何の前触れもなく、ふと食べたくなってみたのだ。海苔のコーナーを探してみる。あった。ご丁寧に三種類も置いてある。オーソドックスなやつと、キムチ入りのやつと、ちょっと高いオリーブを使ったやつ。全部3パックひとまとめ。とりあえずオーソドックスなのを一つ買って帰った。

  それから三日後、オーソドックス海苔の棚の奥の方に手を伸ばしても届かなかった。しゃがんで見てみると、売り切れてしまっていた。恐らく最初に買った日に見た分はすべて部屋のゴミ袋に収まってしまったのだろう。この三日で韓国のりにどんどんのめり込み、はまり、一日あたり消費量はみるみるうちに増えていったのだ。胡麻油と塩分への衝動を抑えられなくなっていた。今思えば壊れていたと思うが、当時は無心だった。立ち上がって目線を引くと、他二種類の韓国のりはまだ発見時と陳列が変わっていない。では次はキムチ味を試してみようとなったのは当然の流れだった。

 また三日経って、とうとう韓国のりコーナーは全滅した。キムチ味が二日で、オリーブオイル使用は一日でその姿を消した。最後のパックを手に取りすっからかんの棚を見たとき、ほくそ笑んでいたのを今でも覚えている。勝ったぞ、俺はこの店に勝ったんだ。ざまあみやがれ、たった一人に負けた気分はどうだ、気分爽快で自動ドアから出た。なんて美しい星空だろう。殲滅戦に鮮やかに勝利した僕を祝福しているかのようだと思った。振り返るとやはり壊れていたのだと思う。

 翌日、用もないのに空きコマに例のドラッグストアーに足を運んだ。どうしても見たかったのだ。僕が挙げた素晴らしい戦果であるあのがらんどうの商品棚を、じっくりと眺めていたかったのだ。そういえば感慨のあまりまだ写真を撮っていなかった。この手で未来永劫その姿を残してやろうと、もう足で覚えてしまった売り場まで一直線で進んだ。そこで僕が目にしたのは、あまりに衝撃的な光景だった。

 全三種類の韓国海苔が、棚からはみ出さんばかりにパンパンに詰め込まれているのだ。急いで確認すると向かいの棚に接する奥の方までみっちりと詰め込まれていて、とても最初に見た日とは違う光景だ。例えるならうり坊が成長して逞しい害獣猪になったような、恐ろしさも感じる鬼の如き陳列。一体誰がこんなことを?えげつなさすぎる、人の心を持つ奴にはとても出来る所業じゃねえ……。待てよ、人の心?呆然と売り場に立ち尽くす僕はふと思い当たる節があった。中学時代の社会の授業で習ったアレだ、あいつのせいだ。むしろこんなことをできるなら、あいつしかいない。それの名前をPOSシステムという。

 POSシステムは、正式名称を販売時点情報管理という。かいつまんで説明すると、その名の通り販売された時点で、つまりバーコードをレジで読み取った瞬間、どの品物が(場合によっては性別や年齢などを入力して)どういう人から売れたのかという情報が記録・管理され、その膨大なデータに基づいてその時に合わせた在庫の管理・売れ筋の把握を行い、正確かつ的確な発注ができる……というわけだ。現代の小売業には欠かせない大変便利なシステムである。しかし僕はこのシステムに挑戦状を叩きつけてしまったことになる。この機械には、毎日「二十代男性が韓国海苔を夜九時過ぎに複数個買っていく」というデータが蓄積され続けた結果、韓国海苔が「売れ筋・流行商品」であるという結論を導き出し、発注担当にそれが伝わり、最終的に異常な量の韓国海苔が発注された訳である。実際にはただ一人が毎日韓国海苔を買っただけなので流行もクソもないのだが。

 しかし現実として発注の通り海苔はこうして届き、僕の前ではち切れんばかりになっていた。ちょうど免許合宿も折り返し地点を少し過ぎたところ、ここで受けた戦いで勝利したいという気持ちが芽生えてきた。だいたい僕は自分の見たい光景をこいつに全くもってぶち壊しにされたのだ。許すまじ。人間としてPOSシステムに負けるわけにはいかない。ルールは簡単、僕の免許合宿が終わる前に、僕がこの店の韓国海苔を根絶やしにすれば僕の勝ち、逆に在庫の防衛に成功すればこの店、ひいてはPOSシステムの勝ちである。ただし買った海苔は次の来店までに食べきっていなければならない。そうでなくてはフェアでない。陽炎揺らめくあの夏、絶対に負けられない戦いがそこにはあった。

 無事仮免許を取得し路上教習が始まり、代わりに座学の授業がどんどん減ったことで暇な時間は増え、必然的に退屈な時間に食べていた韓国海苔の消費量も増えた。スマブラスマブラ、海苔、スマブラ、海苔、海苔、スマブラ。そんな毎日。異常発注はやはり並大抵の量ではなく、食べても食べても棚から減る兆しが見えなかった。路駐が出来るようになっても、一通の注意の仕方を学んでも、やはり韓国海苔はあまり減らなかった。米沢牛や赤湯ラーメンより、海苔の味のことをよく覚えている。しかし僕は食べるのを決してやめようとはしなかった。

 最終日前日、ようやく明日で免許合宿もおしまいだという日まで来た。仲間はよく耐えた、頑張った、などと各々の健闘を称えあっていた。僕も自分の大健闘を一人自分で褒めていた。昨日、あの店には王手をかけておいた。恐らく今日の買い出しで全ての海苔を買い終わり、食べ終わることだろう。長かった免許合宿、長かった海苔生活、ようやく明日で終わる。もう終わりにしよう、こんな戦い、なあ、お前も疲れただろう。店は頼りない照明をチカチカさせていた。それが返事か。そうだよな、この試合終わったらゆっくり休もうや。昨日の僕の攻撃でもうオリーブオイル入りのやつが四パック、ただそれだけしかないはずだった。終わりにしよう。もうこれで最後だと思うとなんだか切ない。そう思えるほどの足繁く通ったコーナーに行った。めちゃくちゃ韓国海苔が入荷してた。僕は敗けた。 

 

 

 振り返ってみて、夏休みの二週間を自分がいかに無駄に過ごしていたのか気味が悪くなってきた。結局免許が取れたからよかったものの、僕は海苔を食べに行ったのか免許を取りに行ったんだか分からない毎日を過ごしていたらしい。どうしてあんなに海苔を食べようとしたんだろう。三パック目を食べて飽きたお徳用の海苔をおやつの箱に入れながら思う。多分だけど、救われたかったんじゃないだろうか。何か、何処へも逃げられない日々のなかで、熱中して、地獄から気を紛らわすことを見つけたかったんじゃないだろうか。今の毎日もあの頃と同じ気がする。だからこんなしょうもないことを思い出した。何もすることがなくて、退屈で、しようとしても出来なくて、失われて、そんな日が続いていく。だから、いや、そんな日だからこそ、とんでもなくくだらないことを初めてみてもいいんじゃないだろうか。普通の日に人間はPOSシステムと競争しようとは思わない。やろうともしないだろう。でもあの日々は普通じゃなかったからそういうことが出来た。こんな日々でしか出来ないことが何かあるかもしれない、と思う。再びおやつ箱へ行って戻したはずの4袋目を取り出した。今度は隣の薬屋と、三度目の競争してみることにした。

 

「光の鍋」を作った話

 今年も長い冬がやってきた。悴んだ指先を去年と同じようにポケットにほうり込んでため息をつくとオリオンの浮かぶ夜空に白い雲が流れた。心許ない間隔の街頭が照らす家路を急げば、辺りの家々から夕飯のいい香りが漂ってくる。こうも冷え込むと暖かい家の晩御飯は何より嬉しいものだ。そう、冬と言えば。アツアツのおでん、シチュー、蟹料理、炬燵で食べる蜜柑、背徳の雪見大福___この時期に食べるべきものは数えればキリがない。しかしどうしてもこれだけは忘れてはいけないというものがある。鍋だ。鍋は至高だ。同じ鍋に入った具材をみんなで好きなだけ好きなように突き、家族団欒、友人との親睦の時を豊かなものにしてくれる。最近は鍋のバリエーションも多いし、バラエティ番組で取り上げられたりしてそういやそろそろちょっと鍋食べたいな、という気持ちを掻き立てられることもシーズンに一度や二度ではない。

 そんな素晴らしい存在である鍋に最悪の具材をブチ込んでいく闇鍋という存在は僕にとって非常に許し難いものであった。第一、食材を無駄にするのが大嫌いなのだ。どうせ作ったって「食えねえwwwwww」と言ってその大半を捨てるのがオチなら最初から作るんじゃねえ、と声を大にして言いたい。しかし悲しいかな今日もどこかで闇鍋は作られているのだ。怒りがふつふつと湧いてきた。このやり場のない怒りはどう鍋にぶつけていいのか、そう思ってふと思いついた。

 

 つまり、闇の逆。カウンターパート。光の鍋は、絶対に美味しいと思う具材だけを入れて最高の鍋を作るのだ。全員が理想を叶える、夢のような鍋。しかしその最大のキモは、「読み合い」にある。

 そう。もし全員が全員、お互いの性格や心を完璧に読み合い、「あいつは肉を入れるだろうから俺は豆腐だ」とか、「どうせ他の奴は具材しか持ってこない。ここは鍋の素を俺が入れねばならん」とか、そういう気配りをしないとダメなのだ。

全員玄人ぶって味が染み込む具材しか持ってこなかったら出汁もクソもないものが完成するし、我が強すぎて鍋の素ばかり持った奴が出てきても最悪のキムチ胡麻味噌レモン醤油鍋とかになりかねないのだ。

合成の誤謬(ごうせいのごびゅう、: fallacy of composition)とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じることを指す経済学の用語。何かの問題解決にあたり、一人ひとりが正しいとされる行動をとったとしても、全員が同じ行動を実行したことで想定と逆に思わぬ悪い結果を招いてしまう事例などを指す。』

合成の誤謬 - Wikipedia

完全にこれになってしまう。

 

一応リスクに見合ったメリットもあって、上手く完成した場合各々の個性や人間性、好みをより深く知り、完璧な鍋を作ることが出来、みんなが一丸となって作った鍋であったまることができるのだ。最早鍋奉行などいらない。民衆一人一人が己が手で鍋自治をすれば、口うるさい奉行などに縛られず自由な鍋を作ることができる。__鍋新時代の到来、そのために重要なのは何より人選である。こういう時にふざけて闇鍋まがいのことをしてしまう奴は何をやってもダメだ。そういう奴は人の唐揚げに勝手にレモン絞るし、電車の席を一人で1.3人分使うし、自販機の缶専用のゴミ箱にビニール袋とか平然と捨てるし、漫画村で漫画読んでるのに開き直るし、借りたゲームカセットに自分の名前書いて売るし、ともかくダメだ。真剣に鍋を作ろうという気概がありそうな友人をピックアップして連絡した。というわけで以下が今回の光の鍋のメンバーである。

 

筆者(はまなす)……料理の経験ゼロ。最近行った調理はチキンラーメンににんにくチューブと豆板醤を入れたこと。

D……暇そうなので呼んだ。以前の記事でDJになった男。最近女児アニメのキャプチャ画像でしか返信できない重病にかかった。顔が八割織田信成

R……知り合いの男性の中で一番料理が出来るので呼んだ。監督者としての役割を期待。鍋ゼクティブアドバイザー。顔が半分ぐらい星野源

K……Rと同様、生活力が高そうなので呼んだ。お尻がやわらかい。似てる芸能人はすぐには思い付かないけどまあまあかっこいい。

J……あだ名がジャガイモなので呼んだ。日本産。男爵っぽい。遺伝子組み換えでない。食材。顔が百パーセントジャガイモ。

ろくな友達がいないということがよくわかった。年末の心寂しい時期に野郎が五人も集まって鍋を突き合うというのは絵面が最悪だが、高校同期の勝手知ったる仲で最高の鍋を作っていきたい。

 

実施にあたって、予めレギュレーションを決めておいた。今回は三回鍋を作る。各回共通の主なルールは次の通りである。

・それぞれの鍋に対して一人は二回まで具材を投入できる

・すべての具材は必ず「各々が鍋に入れたら理想の鍋となりおいしくなるに決まっていると考えた素材」でなくてはならない。また鍋にテーマが設定されている場合それに沿う必要がある。例えば、チョコレート、鉄アレイ、土、犬などはいれてはならない。鶏白湯スープにありったけのキムチを入れてキムチ鍋に上書き保存することなども許されない。

・計六つの具材を用意することになるが、集合時点でどの鍋にどの具材を入れるかは必ず決めておく。他の人の具材の出し方で様子を疑い出す具材を変更することは許されない。

・極端に苦手なもの、アレルギーなどは事前申告する。

 

十二月某日、渋谷のあるキッチンつきのレンタルスペースに「理想の鍋」を求め最高の具材を持ち寄った五人が集まった。


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ちなみにハチ公前集合にしたのですが、レジ袋からネギがはみ出ているので「近所のスーパーから帰る途中で突然スクランブル交差点にワープしてしまった人」みたいになってしまいました。


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レンタルスペース。オシャンな空間で、ボドゲやスイッチなども置いてあるが、今回はキッチンに集中する。

では早速作っていこう。

 

第一回戦:鶏白油ベース

 一回戦と二回戦はあらかじめ鍋のテーマを指定しておいた。これはメンバーがチキって三回全ての鍋に素を投入しないことを恐れたためである。

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ど正論である

というわけでまずは鍋の素を考えてみた。

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なんでこんなにやる気に満ち溢れてるの??

レジ袋からがさごそと各々食材を選んで、テーブルに置いていく。1回目に集まった具材たちは以下の通り。

水餃子、鱈、鶏もも、きりたんぽ、豚バラ、若鶏刻み、白菜、野菜炒め、豆腐、椎茸

「野菜少なくね?」

誰かが言って気づいた。明らかに、バランスが肉や炭水化物の方向に傾いている。普通肉というのは鍋に占める比率が小さいからそのありがたみに気づくのであって、肉をバラまいてしまえばそのありがたみは減り、肉の価値が相対的に下がってしまう。肉インフレだ。パピエルマルクやジンバブエドルと同じ末路を肉が辿ることになる。

しかしなぜこのような悲劇が起こってしまったのか?そもそも僕が肉を多めに買ってきた理由は、前日の何気ないLINEでの会話であった。

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こいつら、大学生なので金がないのである。金がないということは、つまり数ある具材の中でも高めである肉を買ってくる可能性は低いと読める。どうせモヤシとか買ってきてお茶を濁しに濁して懐を温存させるに決まっている。ここで僕がモヤシを買ってきたら、救いようがないモヤシ鍋になってしまう。それは避けたい。主催者として、ここは僕が肉を買わねば___________そう思っていた時期が僕にもありました。

結果として、皆他人が肉を買ってこないことを恐れ肉を確保する安全策に走ったのであった。

「だってさ、肉食いたいじゃん。」

忘れていたが、男子大学生はみんな肉が食べたい生き物なのだ。

出揃った具材たちの下拵えを済ませたところで、素を入れた鍋に野菜たちから投入していく。しかし目にしたものは、想像から遥かにかけ離れた物体だった。


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僕「ラーメン二郎じゃん」

なんで?鍋を作ろうとして、しっかり補助輪として素を入れたはずなのに、白菜と椎茸の時点で既に鶏白湯は見えなくなり、Kの野菜炒めセットを投入しただけでヤサイマシマシにしか見えなくなってしまった。何これ?俺は鍋が作りたかったんだよ。補助輪どこ?三輪車が勝手に爆走を始めてしまった。どうして二郎食わなくちゃいけないんだ。そもそも、野菜は少なかったはずでは……?と思って気づいた。普通家で鍋を作るときは具材は袋から適当な量を選んで入れて残りは冷蔵庫にでも入れておける。しかし僕たちはそんなことは一切考えていない。宵越しの具材は持たぬと言わんばかりに、スーパーで売っていた白菜1/4片とA4大はある袋に詰められた野菜炒めセットをありったけ全部ぶち込んだ。結果として、異常とも呼べる量の野菜が投入されてしまったのだ。もはや笑うしかなくなっていたところにある言葉が場に流れた。

K「天地返し必要じゃね?」

ラーメン二郎でヤサイを多めに頼んだ場合必須と言っても過言ではないのが「天地返し」と呼ばれるスキルである。

二郎系でヤサイをマシた場合、大概スープの中に麺が完全にインしてしまい、逆ラピュタみたいな形のヤサイが波波注がれた汁の上に山をなしている。これではヤサイを食べている間に下で麺が伸びきってしまい、ただでさえ多い量を余計に増やしてしまうことになる。ヤサイを下に、麺を上に、つまり提供時と逆向きに回転させることでこのような事態を避ける、これが天地返しである。今回の場合においては野菜以外の新たな具材を投入してなんとか鍋としての面目を保たせてやるという程度の意味合いでしかないが、そんな悪あがきみたいなことが成立するのか?ええい、ままよ!全部ぶち込んで蓋をした。いい感じかな?と思ったタイミングで開けてみる。暖かい湯気がもわっと立って食欲をそそる。問題は顔を覗き込ませたその後だ。


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ビジュアルが最悪である。真っ白。彩りとかガン無視。天地返しを生き残り申し訳程度に姿を現しているニンジンの欠片達が辛うじてこの写真をモノクロ写真でないと証明してくれている。しかし作ってしまったものは仕方がない。取り分けていく。皿に入れてもなお、ゴミの寄せ集めみたいな見た目に変わりはない。恐る恐る箸を口に運んだ。

 

 

 

 

 

 

「うまい。」

なぜかは知らないが、奇跡的に美味いのである。どの具材も他の具材を邪魔せず、かつ消えず、絶妙なバランスを保ちながら味が染みていて抜群に美味い。各々に笑顔が浮かび始めた。

R「水餃子持ってきたの誰?」

筆者「俺だけど」

R「これ美味いわ」

などといったコミュニケーションがあって場も不思議と温まる。お互いのセンスの良さが素晴らしい鍋を生んだのだ。光鍋、最高か?二つ目いってみよう。

 

 

 

第二回戦:あごだし

談笑のなかにひと悶着があった。

「誰かモツ持ってきたやついねえのかよ」

もつ、とは言い換えればホルモンのことで、専ら聞くのは「もつ鍋」である。確か福岡あたりが発祥の料理だったと思うが、今はもはや全国区のポピュラーな鍋として親しまれているから「もつ」を持ってきた人がいてもおかしくはない。だが、もし「もつ」を入れたら、例え美味しかったとしてもその鍋は一瞬で「もつ鍋」になってしまう。「もつ」をこの場で出すというのは、そういうリスキーで大胆な行動である、というのが各々の共通理解となった。

「お前モツ持ってきてたりしない?」

急な腹の探り合いが始まった。思わず生唾を飲み込む。

「持ってきてないけど……」

「お前さ、ジャガイモ持ってきてんじゃねえの」

あだ名がジャガイモだからジャガイモを持ってきたのではないか、というしょうもない矛先がJに向かう。Jは否定した。レジ袋の中身を推測し責め合う。先ほどの誉め合いとは真逆の心理戦が繰り広げられてしまった。これは光鍋の弊害である。

 

1回目の鍋を片すとすぐにテーブルに2回目の具材の集合合図がかかった。またも10種の具材が卓上に出揃う。

鰤、鱈、白菜、豆腐、ネギ、シャウエッセン、まだら白子、肉団子、餃子の皮、マッシュルーム

「だからさあ、野菜が少ねえんだよ」

もはや野菜と呼べるものは白菜とネギだけだし、というか白菜はさっきも食った。こうなってくるとあの二郎みたいだった野菜炒めセットが神に見えてくる。どうしてこうもタンパク質ばかりが揃ってしまうのだろう?逆になぜ野菜を持ってこなかったのかを聞いてみると、「かぶりが怖かった」「白菜なんて絶対誰か持ってきてる」とのことだった。まあ確かにここまでの二回とも白菜は入っているし、もし他の誰かがまだ白菜を持ってきていたとしたなら白菜まみれの鍋が出来ていただろうからその点ではある種絶妙なバランスにたっているのかもしれない、しかしだからといって全員が他の野菜を買おうともしないという同じ行動をとった結果、こんなガキが好きなもの全部ぶちこみましたみたいな鍋になってしまったのだ。ダブルチーズバーガーとポテトとコーラとかじゃなくて、ダブルチーズバーガービッグマックフィレオフィッシュでセットを頼んでるようなものだ。助演男優賞該当者なし。しかも今回は一回戦よりも各々の個性が強い、そういう目立つのが揃っている。桜井和寿しかいないミスチル、四人とも宮本浩次で出来たエレカシ、全員草野マサムネスピッツ______そんなものが存在してたまるか。主役不在とかではなく、主役しかいないのだ。近頃は「どうしてうちの子が『木』の役なの?!」と文句をつけてくる親のせいで全員桃太郎だったり全員兵十だったり全員豆太だったりする学芸会もあるらしいが、そういう劇が散漫でまとまりなく元のテーマを台無しにしてしまうようにこの鍋もなってしまうのではないか。ていうか全員豆太ってなんだよ。誰が豆太を夜小便に連れてくんだよ。
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さっきよりも余計ビジュアルが劣悪になってしまった。無茶苦茶に茶色い。肉団子とソーセージに鍋が支配されて鍋に暗黒時代が訪れた。恐る恐る、探さないと野菜が出てこない鍋から掬いとる。……いただきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うまい」

ここまでくるとどうして美味しくなるのか分からなくなってきた。白子が付着したソーセージとか、餃子の皮にくっついた鱈とか、たぶん一生食わない組み合わせが取り皿に存在しているのだが、これが食べてみるとはちゃめちゃに美味しいのだ。「白子、『正解』だねえ」「ソーセージ結構いけんじゃん」などなど、またも誉め合いが発生する。いとも容易く鍋は空になってしまった。レンタルスペースの終了時間までまだ余裕があるので、少し休憩をおいてから最後の戦いに赴く。

 

第三回戦:無制限

流石にもう一人立ちの時期だ。僕たちは完全にゼロから、自ら、己が手で仲間を信頼して鍋を作っていくところまで来たのだ。もう既に酔っていたので皆が何を入れたのか記録を取るのを完璧に忘れてしまったのだが、幸い鍋キューブを持ってきた人間(救世主)が一人だけいたので間一髪のところで味がなくなることは避けられた。他に「素」系を持ってこなかった人間が一人もいなかったのは奇跡だった。しかし奇跡を前にして運命は無情にも牙を向く。

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汚い。絶望的に汚い。三角コーナーをそのまま鍋にしましたみたいな、一回戦と二回戦の鍋が美しいと錯覚するレベルの汚さ。テーマを設けないだけで方向性がてんでバラバラに散ってしまった。最後まで野菜は殆ど入らなかった。汚いけど、汚いけど結果はわかっている。もう僕たちは学習している。どうせこれも美味しいのだ。この三回の鍋作りを通して理解したのだ。いかに鍋というものは懐が広く、すべてを受け入れ、優しく包み込み、素晴らしいものにしてくれるのか。たぶん光鍋を不味く作ることは不可能だ。鍋は僕たちのこんなおふざけじみたことを全て許して、美味しく作ってくれる。

僕は、鍋のような人間になりたい。ほら、この月曜日に捨ててきたゴミ袋の中身みたいな鍋だって、こんなにも美味しいじゃないか______。唯一の失敗は、質ではなく量だった。全員鍋の味に目が向いていて、誰一人として鍋の量を考えてさえいなかった。回りを見渡しても誰もが食った食ったと言わんばかりの満足感、否、それを通り越してもう無理です、1mmも動けません、という限界の色を示していた。レジ袋五袋をパンパンにした具材を五で割った鍋を腹に入れたらレジ袋一袋分が収まるという至極当然の算数の結果も出来なかった結末だ。でもいいじゃないか。楽しかったじゃないか。鍋のごとく、おおらかで、広々とした、なんというかな、泰然自若というか、そういう心で僕は生きていきたい。

 

「もう腹一杯なんだけど」

「動けねえ」

「あんなバカみたいな量調理するからだろ」

「誰だよ三回目やろうつったやつ」

「は?」

「二回目でやめときゃよかったつってたじゃん」

「しょうがねえだろ具材残ってんだから」

「おい何酔っぱらってんだよ」

「いや酔ってねえから」

「酔ってんだよお前は」

「片付けだるくね?」

「片付けってすんの?」

「誰か片付けやってくんね?」

「お前やれよ」

「お前もやるんだよ」

 

鍋のようになるには、まだまだ時間がかかりそうです。

 

 

 

 

 



 

はじめてアニクラに行った話

 この世に生を賜って二十年、振り返ってみればお陰様でずいぶん健康に暮らしてきた。骨折したこともないし、体は弱いが病院のお世話になったことは人並み以下のはずである。入院経験もない。羅った病気といえば、中二病とコミュニケーション障害ぐらいである。しかしこれが大病であって未だに治る気配がない。もっとも、リハビリはしていない。

 そういうわけで、人より友達の少ない生涯を過ごしている。その中でDという同級生は、潮風の吹く海辺の公立高校で出会った、僕の数少ない親友と呼べる人間である。高校一年生の頃から妙に古臭いネタがなぜだか通じ、溜まり場だった部室でスマブラをしたり、僕が部室を汚したり彼女イキリをしたら本気で叱咤し、大ポカをやらかせば力を貸し励ましてくれる、器用で正しい目を持った友人だった。本人の弁だったかは覚えてないが、「爪を隠したまま死ぬ能ある鷹」というのは正しい評だと思う。浪人中に寂しい思いをしたときも、一足先に大学生になった彼が一緒にご飯を食べに行ってくれたりしたのに救われた思い出もある。それから僕が一年の浪人を経て東大に合格したころ、Dは、DJになっていた。

 

話は三十度変わるが、世の中にはアニクラというものがある。アニクラのアニとはアニメソングのアニで、クラとはクラブのことだそうだ。つまり早い話が、アニソンばかり流れるクラブイベントという理解で間違ってはいないと思う。普段は薄埃を被った邦楽しか聴かない僕にとって、アニソンは決して馴染みの深いジャンルとは言えない。だが9月14日に開催されたアニクラにてDがDJデビューを果たすというのであれば、見に行く以外の選択肢があったというのだろうか。

 

2019/09/14

 

 この日の朝は山形県の米沢にいた。免許合宿最終日の十七日目、晴れて卒業検定に合格した僕は昼の山形新幹線に乗って会場の新宿へ急行した。小滝橋通りのラーメン二郎の隣にある会場まで南口から徒歩10分、合流した高校時代の後輩二名(彼らもまた、先輩にあたるDの晴れ舞台を冷やかしに来た訳だが、僕よりよほどアニソンには詳しいと見える)を引き連れドアを開いた。料金と引き換えにリストバンドとドリンクチケットが手渡される。黒のボードにイベント名が記され、その下にDのハンドルネームが綴られる奇妙な光景をしてなお実感が湧かなかったが、薄暗いフロアに漂う煙草の香り、その中に流れる爆音の女児向けアニメのOPを聴いてから、ヤバいところに来てしまったな、と思った。気づくのが、遅すぎた。

 

 後輩もそうだが、高校の先輩も来場していた。一人は麻先輩と仮称するが、高校時代は専ら虫を食っていた気がするがいつの間にか国内で合法なお茶を喫っているとかの噂を聞いたと思いきや今は世界一周しているが一時帰国中という忙しい人である。海外放浪のせいか髭が立派に蓄えられて某サッカー日本代表みたいになっていたものの、旅行中はカザフスタン人と間違えられたらしい。

 もう一人はエスファハーン先輩と仮称するが、社会人である。高校の先輩という扱いになっているが在学期間は一日たりとも被ったことがないため俗に「インターネット先輩」などという不名誉な称号で呼ばれているものの後輩思いな先輩で、後輩に奢らないと気が済まないのか食事前に財布を出すと「先輩に恥をかかすつもりか?」などと大声で恐喝してくる。家にも何度かお邪魔したことがあるが、その度に執拗に推しカプの同人誌を幼い子が寝る前のお母さんの読み聞かせばりに押し付けてくる正しいオタクだ。僕の浪人中には予備校裏の公園で勝手に飲酒してブランコから靴飛ばし大会を開催、強制参加させてきたのが最後に会った記憶である。ちなみに見た目が若い頃の張作霖に似ている。

 他にも多数の同期やインターネット知り合いが来場しており、同窓会ムードの一角がフロアに形成され、そこに僕も溜まることとなった。

 アニクラについての基礎知識が欠落したまま参加したので、Dや麻先輩からのチュートリアル説明を挟みつつ観察をする。まず、前方のDJがアニソンを流す。大抵アップテンポで、流し聞きしても爽快な曲であることが多い。プロジェクターを使ってその曲にマッチした映像が流れる(大抵はライブの映像かアニメのOPである)。曲のイントロや歌い出しに反応した、その曲に思い入れのあるオタクがDJブースの真ん前に突っ走ってくる。その際、「キタキタキタキタ」という言葉が発されることがあるが数として非常に多く、恐らく「今日はいい天気ですね」とか「一万円入ります」ぐらいの意味合いだと思われる。 そうやって突進してきた何人かのオタクは思い思いの行動をとるが、基本パターンのような行動もあることに気付く。まず、DJに向かって人差し指を突き出し、「お前お前お前お前!!!!!」と連呼するもの。明らかに喧嘩を売る動作にしか見えないのだが、一応選曲を褒めるものだと思う。その証拠に、亜種としてDJに「偉い!!!!!」と絶叫する人達もいた。この後AメロBメロと大体は飛び跳ねたり腕を振ったりと、いわゆる「ノる」動作に関しては好きな音楽の前で取る一般的行為がされるが、時折どうしようもなくなって地面に頭を抱えながらうずくまるオタク達がおり、子宮の中の赤ちゃんが暴れまわってるぐらいの体勢のイメージとなる。このような地獄絵図が繰り広げられ、サビに入る。その直前に時折「イエッタイガー」なる呪文が大勢のオタクにより絶叫される曲があることに気づくが、多分祝詞の一種だろう。オタ芸も打たれる時があるが、神前で舞踊を捧げるのは古来より伝統的な文化なのでそういうことなのだろう。「好き」という歌詞に反応して「俺゛も゛!!!!」という最悪の合いの手が入り、明らかに女児向けのアニメの映像に向かって真剣な眼差しで「行゛か゛な゛い゛で゛!!!!!」とか絶叫もする。まず突進のスピードがおかしい。横断歩道三割ぐらい渡ったタイミングで赤信号になっちゃった時か?オタク同士が「分かり合った」顔で握手してたりもする。先輩はマリオ64三段跳びみたいなジャンプしてた。そして曲が終わるとオタクは散っていく。それからDJがミックスして新しい曲をかけるとまた新たなオタクが突進してくる。Dは「これの繰り返しだよ」と言った。なるほど、自分の好きなタイミングで突入し自然な出撃ローテーションを組むことで体力を温存する合理的なやり方だが、如何せん片道分しか燃料を積まない特攻隊兵しかいないのでブース前は常に重厚な爆撃が繰り返されている。

 分かってはいたことだが、ズブの素人なので曲はほとんど分からない。でもノる(オタクはこれが極まるのを高まると呼ぶらしい)ためのラインナップが敷かれているので、いるだけでなんとなく気分が上がっていく不思議な空間である。麻先輩の土産話や友達と談笑しながら音を浴びる感覚、それだけで心地よくなれる。DのDJ姿は、結構さまになっていたと思う。細い首に巻いたヘッドホンはいかにもという感じだし、肝心の音の方も、多くのオタクを惹きつけていた。惹きつけられたかどうかは、横から見ていると運動量で分かる。

 とか傍観していたら、次第に知っている曲がぽつぽつと流れ始めた。僕が知っているだけあって流石に有名タイトルのテーマ曲だが、知っている曲が流れると異常な行動を起こす。まず、知らんうちに飛び跳ねている。腕が意思と関係なく振り回される。隣の知らないオタクと何かを共有している気がする。DJに「ありがとう」って言いたくなる。口が何かを叫びたくてたまらない。人をバケモノと思える人は、自分もバケモノになる。気がつけば僕は獣物の群れに入った小さな獣と化していた。十曲に一曲程度のローペースだが、何かが僕を動かし始めた。

 気がつけば既に入場から三、四時間経過していた。誰かが時計の針をいたずらに進めたのではないかと思うほど早い流れは、高いBPMと気分の良さが生み出したものだろうか。ドリンクで喉の渇きを潤していると、耳がある音を受信し体を動かした。らき☆すたのキャラソン随一の名曲、寝・逃・げでリセット!だった。中学時代といえばまだ室町時代南北朝が争ってた頃だと思うが、とりあえず名作っぽいアニメでも見てみるか……という浅はかな考えで見たらき☆すた(本放送は現在から12年前)にハマってキャラソンまで聞いてたわけで(聖地巡礼までしたのはナイショだ)この曲を知っていたのだが、その思い出補正がかかって僕はエスファハーンと共に骨髄以前の反射で最前へ飛び出した。七年前の記憶を引っさげながら跳躍していた。隣のエスファハーンとずっと「ヤバい!!!!!!」とか叫んでいた。本当にヤバいのは、僕たちだった。

 二十時三十分の解散の後、適当にファミレスを食べて解散し、缶コーヒーを飲みながら夜の山手線ホームで電車を待った。足腰が痛いし、疲労困憊だ。でもそれ以上に、好きな曲を最高の形で聴けるというのは、良い体験だと思う。一体どんなものなのかわからないまま参加したにしては楽しめたのではないか、と振り返る。ただ、帰り際に同級生が一様に「俺もDJ始めてえな」とamazonでDJグッズを漁り始めたのを見て、成人式に行きたくなくなりました。